日々のこと
感じたり、考えたりしていることを綴ります。
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結局何も変えられない人たち
心で思っていることと、行動が一致していたら、ストレスもなく充実した生活になるのでしょうね。

しかし、そこは社会で円滑に生きていくため、そして仕事をしていくためには、それを一致させることはなかなか難しかったりします。
したいこと、好きなことだけしながら生きていけたら最高ですが、合わない人や嫌なことも、苦手なことにも、時として対峙していかねばいけません。
それが「生きる」ということでもあるのでしょう。


ですが、自分で責任とれる範疇のことや自分の生き方のことまで、誰かに言われたとおりに、誰かの価値観に則って生きていく必要なんかないと思うのです。

自由なんですから。

もちろんそれに則っていくことも自由ですから、誰かの価値観の人生=自分の喜びであるなら、そんな生き方もそれもいいと思います。


ですが、心と行動がまったく乖離していて、「嫌だ、こんな人生生きたくない」「この人の価値観を尊敬できない」と心で叫んでいるにも関わらず、そこから離れない、変えられないというのはどうかと思います。

本当はそういう状況から脱したいのに、それができないという・・・それは単なる甘えと依存でしょう。

もっといえば奴隷根性そのものだと思うのです。


   奴隷根性の唄             
        金子 光晴

   奴隷というものには、
   ちょいと気のしれない心理がある。
   じぶんはたえず空腹でいて
   主人の豪華な献立のじまんをする。

   奴隷たちの子孫は代々
   背骨がまがってうまれてくる。
   やつらはいう。
   「四足で生まれてもしかたがなかった」と

   というのもやつらの祖先と神さまとの
   約束ごとと信じこんでるからだ。
   主人は、神さまの後裔(こうえい)で
   奴隷は、狩犬の子や孫なのだ。

   だから鎖(くさり)でつながれても
   靴で蹴られても当然なのだ。
   口笛をきけば、ころころし
   鞭(むち)の風には、目をつむって待つ。

   どんな性悪でも、飲んべでも
   陰口たたくわるものでも
   はらの底では、主人がこわい。
   土下座した根性は立ち上がれぬ。

   くさった根につく
   白い蛆(うじ)
   倒れるばかりの
   大木のしたで。

   いまや森のなかを雷鳴が走り
   いなずまが沼地をあかるくするとき
   「鎖を切るんだ。
    自由になるんだ」と叫んでも、

   やつらは、浮かない顔でためらって
   「ご主人のそばをはなれて
   あすからどうして生きてゆくべ。
   第一、申し訳のねえこんだ」という。


何も変えられない人たち(生き方の心身が一致していない人たち)を見ていて、そんな奴隷根性が染みついているんだなぁとしみじみ思います。

離れることや別れることに、恐れることも、同情することも、一切ないのに。
自分を規定する何かを、誰かにゆだねる必要もないのに。
繰り返しますが・・・自由なんだから。
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