日々のこと
感じたり、考えたりしていることを綴ります。
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あと何度できるだろう
先日、妻の両親と食事にいく機会がありました。

数十年通い続けているお店のラーメンをすすりながら、妻の母が「お父さんもあと何回このラーメン食べられるだろうね」とつぶやきました。

たしかにそうだなと思います。

好きなところにいく、食べたいものを食べる、欲しいものを買う。
今はできてあたりまえのことかもしれませんが、それができなくなるときは必ずやってくるだろうと思います。
何かを欲しても、それが叶わない叶えられないというときがくるのでしょう(私たちも含めて)。

それまではできるだけ一緒に買い物や食事をしたり、誕生日をお祝いしたり、できることをできるだけやっていけたらなと思います。

その瞬間瞬間を大切にしていく。
日常という“いつもと変わらない時間”もまた二度と戻ることのない時間ですね。
(って思っても、忘れてしまいがちなんですけどね)

妻ともよく話ますが、両親のことも自分たちの人生のことも悔いのないようにしたいと思います。
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闘う
いろいろなことを守ったり、主張をきっちり通すためには闘わなければならないときがあります。
(“闘う”といっても、いろいろな“闘い”がありますが)
それは心身ともにとてもきつく消耗することです。

闘いたくないな(というよりそもそもめんどくさいな)といつも思います。
しかし、やはり納得いかないことをそのままにしていると、いろいろなことに影響してきます。
自分だけのことではすまないことになってきますし、自分のことではすまないからこそ、ちゃんと闘わねばならないと思います。

甘んじて受け入れてもいいのではないか。
事を荒立てるのは大人のすることではない。
そんな言葉が常に頭をよぎりますが、やはり闘うべきときは闘わねばならないですね。

私は闘わねばならないときは徹底して闘います。

得て不得手や好き嫌いを気にしていたら、私がここにいる意味はありません。
それもまた私の負うべき、負わねばならない責任なのでしょう。

勝つとも負けるとも違い、正しいか間違っているかでも分けられないところが大変なのですが、きっちり闘っていきたいと思っています。
たった一口のみそ汁も
今まで普通にできたことが普通にできて、日常というさもすれば退屈にも感じられる毎日が実はとても貴重な瞬間であるということは、聞いたり見たりすることがあっても、それができなくなったとき初めて実感するものですね。

たった一口のみそ汁も、たったひとかけらの肉ものどを通らないという状態になって、普通にご飯が食べられるということが、どんなに幸せなことかとしみじみと日常をその言葉のまま送れることのありがたさに気づかされます。

好きなものを食べたり、行きたいところに出かけたり、会いたい人に会いにいったり、そんなあたりまえのことができる素晴らしさは本当にかけがえのないこと。

普通にできていたことが、あるときからできなくなったということは、遠い話しではなく実はとても身近でいつでも誰でも起こり得ることなんだと、今頃になってようやく分かりました。
人生とか日常は、こんなにも脆く変化するものなんですね。

そしてようやく体が戻ってきて、飲んだみそ汁の美味いこと美味いこと。
「俺はいつもこんなにうまいものを食べていたのか」と愕然としました。


妻と「ほんと何があるかわからない、悔いのないように生きていこう」と誓い合いました。
現状を打開するには
仕事をしてたら、いろいろとつらい状況に陥ったり、望んだとおりに物事が進まないなんていうことはいくらでもあります。
むしろ会社や仕事が「満足のいく状態にある」なんてことは永遠にないでしょう。

そんな厳しい現状を打開する一番有効な方法は、やはり「自らが変わる」ことしかないでしょう。

自分以外のもののせいにすることは簡単ですが、自分以外のものはコントロールすることもできません。

「自らが変わる」ということ。
「自らを変える」ということ。

それでうまくいく保証なんてありませんが、それをやり続けるしかないでしょう。
特に今の自分にとっては、とても大切なことです。

現状をなんとしてでも打開してやる!
制約
ふと思ったことです。

人は誰でも自分のなかにいろいろな制約を持っています。
その代表的なものが「できるはずがない」とか「自分には無理だ」という気持ちだったり。
また「こうあるべき」とか「こうしてはいけない」なんかも制約の一つでしょう。

そう考えると、私はいま父から会社を引き継ぎましたが、これを一番最初にやろうと決断するのって本当に大変だったろうなとなんだか改めて思いました。

自分がこれまでやったことのない世界に入っていくというのは、たぶん断腸の思いとか、「清水の舞台から~」というような心境どころではなかったろうなと思います。
年を重ねれば重ねるほど、ほとんどの人がその制約を自らを守るためにも自己強化していきます。
うまくいかなかった人を見て、「やっぱり」となるのもそうですし、うまくいってもあれは別の世界の別次元の人間のすることとか言ったりして。

そんなことを繰り返していくと、いつのまにかその制約はその人のなかで「人生における真実」とか、「人生哲学」なるんでしょうね。(それが良いとか悪いとか関係なく)

それでもこの世にあるすべてのものは、そういう制約を解き放った一つの思いが、一つのモノ、カタチとなり、そこに様々な関係が生まれて、広がってきたんだよなとも思います。

その制約に打ち克つことで、新しいモノが生まれる。


今私が抱える問題も悩みも、その本当に一番初めの「一つの思い」から派生した副産物、副次的なものなんでしょう。
結局会社が存続していく、または自分がその役割を担っている限り、その問題と悩みには付き合っていかなければならないんですね。

それは幸せなことでもあり、気が遠くなることでもあるな~と思ったのでした。
譲らない生き方
先日、ある会議がありました。
私たちも所属している業界団体主催の情報交換会ということで、行政機関の役人さんに制度についての説明いただくという会でした。

出席者のほとんどがそれぞれの組織のトップの方たちでしたが、ほとんどが70代をゆうに越えた方々でした。
これほどご高齢の方たちが現役というのも驚きましたし、そういうお年の方たちばかりなのにも驚きました。
こういうことがやはり今の地元の現実なのかと感慨深いものがありました。

そしてその会議へ政策などを説明に来られた、中央官庁のキャリアとはいえ今は出向して地方自治体の担当課長である一介の役人さんへ責める責める・・・。まるでその方がすべてを決めた権限と責任があるかのように話をする情景はは、なかなかの陰惨たるものがありました・・・。

どう生きていくのかはその方の選択ですから、何も申し上げることはありませんが、私は70歳を越えてまで、会社経営に携わりたくない(そもそも仕事をしたくない)とも思います。
専門職や個人事業主でならともかく、あんなふうにはなりたくないと思いました。

「生涯現役」とは聞こえがいい言葉ですが、いつまでも実権をにぎり後進へ道を譲らない生き方は私はとるまいと固く誓いました。
10年先を見据えた政策を、(常識的に考えて)5年先も分からない高齢の方たちが物言う滑稽さと相まって、その方たちがものすごく痛々しくかっこ悪かった・・・。そして自分の会社への影響についての議論がほとんどでしたし・・・。
ある意味、日本社会の縮図を見ているような・・・。

稲盛さんにしろ、任天堂の山内さんにしろ、社内外の素晴らしい人材を見抜き、道を譲られました。

私の人生は私だけで完結しますが、関わっている人間や組織、その考え方などは綿々と続いていきます。そしてできるだけ続けていけるようにするのも、経営者とはいわず人として大切なことだと思っています。
会社に限らず、私たちは父母や祖父母、その前の世代があって私たちがいます。そして私もこのあとに続く世代に引き継ぐことになるでしょう。

たまたま開いた雑誌の記事に「私は父や母、祖父母から引き継いだものを、子に引き渡しただけ」というあるサーカスの団長さんの言葉が載っていました。
その言葉が少し重くなったように思います。

若い人を見ていれば、経験不足やスキル不足に不満もつのるでしょうが、温かく見守るもしくはせめて後見役だけに徹するくらいの器になりたいなと思います。

自分への戒めとして、とても勉強になりました。




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