日々のこと
感じたり、考えたりしていることを綴ります。
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時代の潮流
NHKスペシャル「マネー氾濫~世界経済に異変~」を見ました。
リーマンショック以降の現在も続く金融緩和とその縮小に伴う影響が、ブラジル・インド・中国やその他の新興国の状況を通してとてもわかりやすく描かれてました。

その番組を見ながら、2009年頃ブラジルが過熱する景気とレアル高に苦しんでいた状況のなか、海外からの投資マネーに課税するなどしてその過熱を冷まそう躍起になっていたことを懐かしく思い返しました。当時友人がブラジルに投資をしていたので、そのことでいろいろ話しをしていたこともあり、とても印象に残っています。

それが今やまったく逆の様相を呈していて、マネーが引き上げられ景気が冷え込み、レアル安に苦しむ姿(番組ではドル建ての社債を発行してその返済に窮するブラジルのエネルギー関連企業が取り上げられていましたね)は、時代の変化・潮流というものの凄さと恐ろしさを感じさせます。

大きな時代の流れというものに抵抗することはできないことと、大きな変化が今も起こっていることを強く認識させられます。
いつの時代もマネーは運用先(利回り)を求めて、常にうごめいているのですね。あの無数のお札が地球のまわりを舞っている映像はそんな世界を投影していました。

今はそのマネーがアメリカへ回帰していますが、これがまたどこに向かうのかいろいろな予想はされていても、未来はわからないでしょう。
少なくともしばらくは「新興国」という括りでの投資はされないでしょうが、アメリカの不動産価格が上昇を続けているということから見ても、あれだけのことがあっても不動産投資をする流れが復活してきたように、新たなブームが加わり、また「いつか来た道」を繰り返すのでしょう。もっと大きな視点でみれば、常にそれを繰り返したきたことは歴史が証明していますね。

たったここ5年ほどの世界経済の大きな変化を目の当たりにすると、そうした変化は私たちのまわりでも確実に起こっていること。目に見えての劇的な変化ではないかもしれませんが、今も着実に変わっているのだということを感じさせます。

リーマンショック以降の経済の潮流を整理するのにとてもいい番組でした。


そしてもう一つ
「金融緩和を継続すればマネーの膨張を招きバブルの懸念が高まる。逆に縮小すれば景気の腰折れ懸念が高まる。」

この言葉は以下の言葉に言い換えることができると思います。
「何を選択しようと、リターンだけではなく同様のリスクは常に伴うこと」

決断というものの本質、さらに物事の本質までが浮き彫りになっているように思います。
自分にもつながってくるものですね。
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ちゃんと捨てる
事業をやっていると、いろいろなことが起きます。
今日もお客様と(一つ話がこじれると大変なことになるような)ものすごく重いお話をさせていただくこともありました。また何も見通しが立っていないのに次の段階の打ち合わせ(住む部屋も決まってないのに家具を選ぶみたいな)があったり、また私たちが今後やろうとしていることに尾ビレ背ビレがついて荒唐無稽な噂となっていることも耳に入ってきました。

それらのことが同時進行ですので、頭と気持ちの切り替え、そして何事も鷹揚に冷静に受け止めることが必要になります。
ですが、私もまだまだ鷹揚に構えてということはできません。常にドキドキしっぱなしです(噂はおもしろかったですが)。

そういう状況に晒されて、最近ものすごく意識していることがあります。
それが「ちゃんと捨てる」ということ。

何が大切なことなのか、何が重要なことなのか、そこにフォーカスする。
あることにフォーカスするということはそれ以外のものを捨てるということだったりします。

事業をやっていると、様々な利害や思惑が絡みますし、またまわりの目も気になってきたりします。
しかし、いろいろなことが降りかかってくると、ちゃんと選別しないと対処できないなとなりますし、自分の考えや自尊心がものすごく邪魔をすることもあります。
完全に自分を消して、相手に合わせてしまったほうがうまくいくこともあります。

虚栄心、世間体などの体裁、まわりの目など、もうどうでもいいなと思います。
それ以外にももっともっと捨ててしまわねばならないことがあるな~と思う日々です。

そんなものにとらわれてる暇も余裕もなくなるほどめまぐるしいです。
(大きな目で俯瞰したら、この状況はものすごくありがたいことなかもしれないですね。ヒィヒィ言っていますが・・・)
“底”に触れて
ここ最近、いろいろなことが立て続きに起こりどのような判断を下すべきか、またどのように望むべく方向へむけようか、思案に暮れる日々が続いています。

様々なリスクがあるとわかりながらやっていても、それが顕在化してしまうと、きっちり対処しなければなりません。
また対処法がはっきりしていれば、あとは“やるだけ”ですが、対処法で苦慮する事案がとても多くなってきました。

こういうときは、なかなか精神的に休まりません。
先が読めない、休まらないということはそこが自分の“底”(=キャパシティ・=限界)なのでしょう。

そういう自分の底に触れて(見せつけられて)、自分の浅さ、小ささを思い知らされています。

ですが、思い知らされようと、やらねばならないこと、決断せねばならないことには変わりありません。

いろいろな意味でギリギリですが、歩みは止めないようにしたいです。
まずは踏み出してみて、そこでまた見えた世界に対処して、次のステップへ踏み出してというのを繰り返していくしかないのでしょう。
踏み出すしかないですね。


今の“底”止まりなのか、まだもう少し深く広くなるのか、願わくば深く広くしたい。
しかし、それができるかどうかは、自分しだいでしょうし、深くなっているも広くなっているも自分から評価することはできないでしょう。

自分をとりまく状況が厳しくなればなるほど、妻をはじめ支えてくれる方たち、応援してくださる方たちのありがたみも増していくのも勉強になっています。
ここ最近
ここ最近、私が所属している業界団体での新会員を募る営業にでています。
売りモノがあるわけでもなく対価もありません。

その業界団体そのものについては、全く興味をもってもらえません。
そうなると、他に売れるモノといえば「自分」くらい。
まだ始めたばかりですが、売り上げは0です。

うちの社員から、「以前だったら絶対やらないですし、興味もなかったですよね」と言われました。
全くその通りです。
なのになぜか巡り巡ってそういう役回りがまわってきて、こういう機会もないしやってみようと思って、その道を選択しました。
選択したからには、やれるだけのことをやってみようと思います。
どうやって攻略しようか、そういう戦略を考えるのも嫌いではないです。

もちろん会社のことはきっちりやりつつ、新事業の手も打ちながらです。
そこを疎かにすることもできません。

そして日々玉砕して帰るたびに、これでよかったのか、あの言い方はまずかったな、次はこれでいってみようと思っています。
しかし、私が会う方はそれぞれでその組織をまとめている方ばかり。
その方たちと会って話をするだけでも、いろいろと勉強になります。

「人を見る目は自分を見ることにもなる。相手が自分にどう映るかは、人から自分がどう見えているのかにもつながる」
妻にそんなことを言われました。妻恐るべしです。

対価は“そういう経験”かもしれないですね。
そんな抽象的で主観的な成果しか言えない状況ですが、毎日毎回試行錯誤しつつまわらせてもらっています。

挫折だらけですが、自分が「今日も一日やるだけのことはやった」と思えたら、“勝ち”だと思うんです(人生でもなんでも)。
コントロールできる範囲
先日、ある旅館をされている社長さんと雑談していたときのこと。
その方は年々観光客の減っていく「ある観光地」をどうにか復活させたいと熱っぽくお話されていました。

その方が経営されている旅館というのは、これまでもそこを訪れる観光客の恩恵を受けていたのでしょう。
その観光客の動向と売り上げは相関関係がありリンクしてきたのでしょう(と少なくとも社長さんは思っているのでしょう)

その「観光地」の復活こそが、自分の旅館、さらにはその地の旅行業界全体を活性化する起爆剤となるとのことでした。

その志は素晴らしいと思います。
観光団体の重責を担っている立場でもあり、その業界全体のことを考えたことともいえます。
私もぜひともそうなればいいなと思います。

ですが、私はその熱く語る話を聞いていて、とても違和感がありました。とても重要なことを忘れていると思うのです。
観光客の増加=旅館の売上増というのは成り立たないのではないかということではありません。
(ただ、私は観光と旅館に以前のような相関関係は成り立たないと思っています)

それはもはやその社長がコントロールできる範囲を超えているということ。
その観光地にくる人の数を増やすというのは、その社長さんが一人でやれることではありません。

自分がコントロールできる範囲を超えたことを願うより、まずは自分が直接コントロールできる範囲のことに集中することが先決ではないかと思います。
ここではその旅館のなかで手を打っていくことなのだと思います。

コントロールできない範囲を願うこと、逆にいえばそれはいくらでも「できない」「そうならない」理由になります。
いくらでも自分以外のことに理由を転嫁できてしまいます。

ちなみに私が「取り立てて人が集まるような観光地も近くにないのに、こんな形態の旅館でものすごく高稼働高単価のところがありますよ」と申し上げると、「私にもプランはあるんですけど、銀行が新しい資金を融資してくれなくて・・・」と言っていました。

そこでもやはり自分がコントロールできる範囲を超えたことを“理由として”おっしゃっていました。

少なくとも自分がコントロールできる範囲でやれることをやるしかないでしょう。
やはりその条件、その環境、その資本、その社会情勢、その社員たち、そのなかでやれることを考え抜いて、考え抜いて、やるしかありません。

その方と話していて感じる違和感を、後々考えてみてそんなことを感じました。
ここにまとめておきます。
自分の人生を生きる
「自分の人生を生きる」
ものすごく当然のようで、そうではなかったなと確認することがありました。

誰かにとって(世間にとって)の素晴らしい人生や誰かの価値観で生きていく必要はないし、
誰かの選択や生き方に、自分の思いをのせたりすることもやってはいけない。そうする必要はない。

書いていてとても当たり前なようですが、これができていなかったなと思います。
たとえ、家族であったも一人の立派な大人であれば、あとはそれぞれがそれぞれの道・選択をして歩んでいくこと。
それを温かく見守っていけたらいいなと思います。

ここ数年、勝手に背負っていたものをきっちり降ろして、いろいろととらわれていたことを昇華したりきっちり捨てたりして、また次の段階へ進もうと思います。

私は妻とともに、心から望んだ人生を生きていこう、楽しもうと改めて思います。
転機を迎え、私たち夫婦にとっても新たな門出ですね。
失敗を失敗で終わらせない
今日ある資格取得に取り組んでいる社員から先日の試験の結果がだめだったという報告がありました。

ここ数週間、緊張する場面に弱いその社員は、実地試験のためにいろいろな人のまえで自主連を積み重ねてきました。
その姿を私も含め多くの社員は知っています。

とても落胆している姿をみるのはつらいものがあります。
しかし、その失敗を失敗で終わらせないためにも、再びチャレンジするしかありません。
しかも試験ですから自分の力で受かるしかありません。

失敗から学び乗り越えること。

そうやって失敗を失敗で終わらせないことはとても大切なことです。
その経験をまた次につなげることで、その失敗は失敗ではなく糧となるでしょう。

松下幸之助さんの
「人生は成功しかない。なぜなら成功するまで諦めなければ(続ければ)いいんだから。」
「失敗したら、また一歩成功に近づいたと思え」
それらの言葉を思い出します。

同じような出来事があり、同じような内容のブログが続きましたが、そういう失敗が続いたのは長い目でみてとてもいいことだと思います。
挫折を知らない人は挫折した人の気持ちも分かりませんから。


先日の社員といい、今日の社員といい、その面談が終わったあとの眼力を確認して、そういう結果も“それはそれでよし”だと確信しました。
責任の取り方
今日はうちの社員か電話がありました。
ミスをしてお客様にご迷惑をかけてしまったことの報告でした。
(しっかりと対処してくれ、大事には至りませんでした)

この方はある部署をまかせている方。
その自分がミスを犯してしまったということで、自責の念が強かったのでしょう。
少し感情が溢れていました。

責任感が強くとてもまじめな方ほど、何か失敗すると自分を責めます。
そういうまじめさはとても好感をもちますし、そういう責任感の強さがあるからこそ、私もまかせられるところもあります。

しかし、冷静に省みて分析することは必要ですが、自分を責めることはその仕事の責任を果たすことにはなりません。
組織をまとめる立場になればなるほど、そうです。

そのミスもまた一つの経験、今後の仕事にも、その役割にも、それらをひっくるめて自分の強さ、糧にしてほしいなと思います。それが責任のとり方でしょう。

何事もどんなときもすべては機会。
何が不幸で何が幸かは、それを決めるのも自分の解釈しだい。
ここから学べばそれでいいと思います。

こういう社員がいてくれること。
それが私たちの会社の強みであり、誇りであり、財産です。

そしてこういう社員を全力で支え、守ることが私の役割ですね。
私もしっかり責任を果たそうと思います。
事業の基となるもの
稲盛和夫さんの「徳は事業の基なり、動機善なりや、私心なかりしか」「利他の精神をもっているか」という言葉。

北尾吉孝さんの「志と野心は違います。志は世のため人のため、野心は私利私欲です。私利私欲に人はついてきません」という言葉。

小倉昌男さんの「企業は社会的な存在である。それは財なり、サービスなりで社会に貢献するとともに雇用の場を提供するからである。したがって企業は永続しなければならない。永続するには、倫理性に裏打ちされた優れた社格が求められる」という言葉。

渋沢栄一さんの「右手のそろばん、左手に論語」という言葉。

これらの言葉は、事業をする上で、誰のために、なんのためにやるのか、どんなことをベースに考えたらいいのか、そんな問いに対する答えだと思っています。

まだ学生だったころ、会社の経営などにも携わっている方に、「事業をする上でお金は目的ではない、お金は事業を通して志を果たすための手段だ」と言ったことがあります。場所は帝国ホテルのバーでした。(ものすごく生意気なことを言ったため、鮮明に覚えています)
一笑され「理想と現実は違う、現実を知らないからそんなことを言うのだ」と一蹴されたことがあります。(当然ですね、その方は闘っているのに、闘ってもいない、またなんの実績も現実感もない若造が言うのですから)

今の私がいってもまだまだ説得力はないかもしれません。

しかし、私はその尊敬する経営者の方たちの言葉もお金についても、今も正しいと思い込んでいます。
思い込んでやっていたら、私の言葉にもいつか説得力がつく日がくるかもしれません。

事業を通して、様々な人の役に立ちたい、喜んでいただきたい。
そして多くの人を雇用して、生活の糧を得て、さらに社員たちがその仕事や役割を通して成長してほしいと思っています。それを果たすためには、しっかり儲からなければなりませんね(ここでお金が登場します)。

冒頭の言葉たちをベースに、そういうことに自分のすべての力を集中しようと思っています。


私がいつも心がけている李白の言葉があります。
「天生我才必有用」~「天が私を生んでくれた以上、必ず世の中の何らかの役に立つためである」

私はこの世界の何の役に立てるのかわかりません。しかし志と事業を通して私なりにこの言葉に対して答えていきたいのです。

まとまってませんが、“熱”だけは伝わりますかね・・・
目標へ到達するための視点
岡田斗司夫さんの「いつまでもデブと思うなよ」という著書のなかに、
「痩せようと努力する」のではなく、「太ろうと努力するのを止めよう」という言葉が書かれてあります。

その言葉の意味は、この著書に書かれていることを実践するとすごくよく分かってきます。

「あなたは“痩せようと努力してもできないダメな自分”ではなく、“太る努力をこれでもかとし続ける大変な努力家”なのだ(でなければ太らない)」と言います。

ある社長さんから、これと似たようなことを教えていただきました。
苦境に陥っていたとき、この苦境を乗り越えるための目標を設定し、その軌道を考えていたとき、ふとその目標から今を見たほうがクリアに見えたとうことです。
その方はゴルフに例えて、グリーン上のボールからカップまでの軌道を描くのではなく、カップから逆にボールまでの軌道を描いたということです。

スタート地点から見る目標とははるか先のことだったりします。
そこまでどう到達するかどういう道を進むか考えますが、逆にその目標から見てみる視点も目標へ到達するための一つの方法かもしれません。

私もこれまで新規事業を立ち上げるときに、まずはすることは“すでにその目標を達成した風景を詳細に描くこと”。
これから「出来るように努力しようではなく、“すでに出来ている(頭の中に)”」というふうに。

ですので、それが形となったときも、「新しいものが出来上がった」のではなく、「すでに頭のなかにあったものがようやく現実になった」という感じです。

目標へ到達するためには、ときに視点を変える、考え方を変える。
こんなことがとても有効で、力を発揮してくれるのではないかということは、実感としてもあります。

またある方は悩んでいるとき、苦しいとき、自分の悩みや苦しみを宇宙の視点から見てみるのだそうです。そうすると自分が懊悩していることなど、この世界の小さな小さなことだとはっきりと分かるそうです。

その社長さんとやり取りしていて、そういう多岐にわたる視点で物事を見ることを思い出しました。
「そうだった、そうだった、心や想像力はどこまでも自由で、無限に広がっていけるものな~」と。

教えていただいてありがたいなぁと思います。
気概
今、梅原猛著「葬られた王朝-古代出雲の謎をとく-」という本を読んでいます。
葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫)葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫)
(2012/10/29)
梅原 猛

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そのなかで、この著作に対する素晴らしい気概に満ちた、私も揺さぶられる文章があったので、ここに備忘も含めて書きたいと思います。(内容とは関係ありません)

「しかし、私は、昔から通説を根本的に覆す論を展開してきた。『隠された十字架』における法隆寺を聖徳太子一家の怨霊鎮魂の寺とする説、『水底の歌』における柿本人麻呂を流罪刑死の人とする説など、何百年の間真理として伝えられてきた説を覆す新設を私は立ててきた。それらの説に対して誹謗、中傷、冷笑、黙殺こそ続いたが、首尾一貫した私の説には根本的に異議を唱える学者はいなかった。今、それらはほぼ定説になりかけているように思える。若き日、このような思想の冒険を行った齢八十四を超えて、あえて今まで多くの学者が信じてきた通説を批判し、新説を唱えることに何を恐れることがあろう。私が恐れるのは通説に安住することであり、真理を語って孤独になることではない。私の人生は残り少ない。残された人生において私は真理を語りたいのである。世間の評価など、何を恐れることがあろう。私はこの論文でそのような思想の冒険を行おうとしている」

学生時代、『隠された十字架』を読んだとき、とても衝撃を受けたことを覚えています。
なんと挑戦的な論文なんだろうと。しかし、一つ一つの事実(根拠)を積み重ねていく論理にも感動しました。

この著作でも、これまでの通説といわれることに真っ向から自説を展開しています。
(こんな挑戦的な論文を書くところが、この著者を好きな理由だったりします)

どんなことでも何かを成そうと思えば、最終的に試されるのはその気概。
逆にいえば、それだけの気概を持っているかいないかで、その成否を分けることになるのでしょう。

この気概、私も見習いたいですね。
というか、その気概だけなら負けてないかもしれません。

あとは行動ですね。行動だけですね。




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