日々のこと
感じたり、考えたりしていることを綴ります。
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乖離しているか、結びついているか
身内で営業の仕事をしていた者が、20代終盤に医者になると決意をし30代になってから医学部に入学しました。

順調にいっても、新米医師としてスタートするのは、40歳近くでしょう。
そして営業をしていた経験と医者になることは、全く乖離していてつながりもなさそうに見えます。(実際、医学とは何の関連もないでしょう)

しかし、彼はこれまでに営業職で培ったコミュニケーション力は、医師となってからも絶対に活かせる!むしろその経験こそが自分にしかない個性であると思っています。

ある世界とある世界が乖離しているか、結びついているか、それは結局自分の主観なのでしょう。

昨日のブログ、棟方志功が見る世界の解釈も、まさに棟方志功の主観でした。
(その主観のユニークさ、鮮烈さが板画として表現され、感動や共感を呼ぶのではないかと思います)

自分がこれまでやってきたことと、これからやろうとしていることは全く違うもので乖離しているなどと思っていないその姿は凛々しく清々しい。

そしてそういう姿勢でいることって、すごく大切なのではないかと思います。

それは自分の生き方、過去を受け入れることであり、自己を肯定することでもあるんだろうなと。
どんな道を歩んできた自分も認められる人は、様々な障害を乗り越えられる人なんじゃないかと思います。


(ある方とお話しながらそんなことに思いをめぐらせていました。)
私もがんばろうと思います。
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世界はどう見えているか:棟方志功記念館で感じたこと
ここ数週間、いろいろな出来事、人間模様を見ることがあり、とても学び多き日々を過ごしています。
俯瞰して見えること、その渦中のなかで見えること、その他起こること(絡まれること)に際して、毎日勉強させてもらっています。

とてもいい経験をさせてもらったというところまではまだ整理がついていませんが、いつかそう言える日がくると思っています。


先週土曜、妻と青森市にある棟方志功記念館に行ってきました。
その一週間ほど前、偶然パンフレットを見かけ、行きたい!と、いてもたってもいられなくなってしまいました。

あの版画(板画)をみていて、棟方志功はどういうふうに世界を解釈しているのか、世界はどんなふうに見えているのかをあらためて知りたくなったのです。

釈迦十大弟子などをはじめ、有名なものから、書や油絵まで様々な作品が展示されており、本当にいろいろなことを感じることができました。

その記念館では、棟方志功を特集した番組も放映していました。
そのなかに富士山を見ながら、油絵を描く映像がありました。
キャンバスに一心不乱に迷うことなくガンガンと色を重ねていく(しかも楽しそうに!歌いながら!)のを見て、自分にとって富士山は「こう見える(こう解釈する)のだ。こう表現するのだ」と語っているようでした。

ゴッホの絵を見ながら、「ゴッホは哀しい、こんな哀しいヒトはいないよ」という語る言葉からも、自分の感じ方(解釈)に疑いなどもっていないのだ、そう思う(見える)からそうなのだということを感じました。

その純粋でひたむき、そして狂気じみたその姿から、棟方志功という主観を通した「世界」に少しだけ触れることができたように思います。

そして自分が解釈する世界(そう見える世界)を疑わず、内なる衝動に従う天真さにも、ある種の憧憬と畏怖を感じました。
最悪な事態を目の前にして
乱暴な分け方かもしれませんが、不条理な、理不尽な、ある種最悪の事態を目の前にして、人はどうするか、なんとなく分かってきたことがあります。

・混乱し、その後絶望する人(自分に絶望することも含)
・ただ目をつむり過ぎ去るのをひたすら待つ人
・一切関わらず回避する、そこから立ち去っていく人
・お前が悪い、あれが悪い、「○○のせい」という人
・あきらめて、流されるままに淡々と受け入れる人
・その事態にそのまま相対し、積極的に闘おうとする人

だいたいそんな感じに分けられるのかなぁと思います。
(余談ですが、キューブラー・ロスの「死の受容5段階説」と似てますね)

一番最後がとてもよく見えますが、どれが良いとか悪いとかではなく、あとは価値観とか生き方の問題なのでしょう。
そしてどれも自分の身を守るため・保つためのちゃんとした理由(防衛本能)でもあると思います。
かくいう私もたくさん逃げて、たくさん現実逃避して、人のせいにして、絶望してきました。


ただ、私のまわりの方を見回して、私が憧れる人、自らが輝いている人というのは、例外なく一番最後のことを実践している人だけだなと思います。

今日ある光景を見ていて、改めてそう気づかされました。

私も「いつかそうありたいなぁ」と思います。
素敵な若者
毎月伺っている勉強会にて、一緒に勉強している大学生の若者がいます。

先日の空手の出稽古に伺った道場に、その方も小さい頃から入門されていました。
そして、とてもありがたいことに稽古が終わったあと道場から泊まっていた川崎のホテルまで送ってくださったのでした。

お父様も事業をやられていて、そういう環境のなかで思うこと、考えること、まわりから言われることが私と同じような経験をされていましたし、考えていることや悩んでいることも、私とも似たようなこともたくさんありました。

道中、とても真剣に楽しく、いろいろな話しをしました。

経営者としての視点、社員としての視点、役割、立場によって・見る場所によって、正しいことは変わり、見える風景も全く違う、そこに戸惑うこともあるでしょうし、迷うことも苦しいこともあるでしょう。

大学生の彼が、これからどんな仕事をするのかわかりませんが、その視点の違いも含めていろいろなことを経験しながら、自分のなかに揺るがないものを築いていってほしいなと思います。
(私もがんばっています)

結局、23:00くらいに道場を出て、川崎駅についたのが日付が変わった2:30・・・汗でびしょびしょだったTシャツも乾ききっていました笑

これからまた友達に会うと言って走り去っていきましたが、「どれだけ元気なんだろう・・・すげぇな・・・」と思いながら、ヘロヘロな私は呆然と車を見送っていました。

「親父を越えたいんすよ」という彼の目標、それは私も同じです。
一緒にがんばりましょう。

送っていただき、そして楽しい時間をありがとうございます。
また次回、会える日が楽しみです。
時を経て2度薦められた本
パウロ・コエーリヨの『第五の山』を読みました。

この本、ある方から薦めていただきました。
(その他数冊、パウロ・コエーリヨでは『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』も薦めていただきました。それは今、妻が読んでいます。)

実は、この本のことは以前から知っていまして、薦められたのは2度目でした。

最初は弟が紹介してくれたのですが、それほど気にならなかったのか読む機会を得ず、そのままになってました。(ちなみに『アルケミスト』がパウロ・コエーリヨとの出会いだったのですが、それも弟から薦められて読みました)

10年ほどの時を経て、全く違う機会に、全く別な人から同じ本を再び薦められるというのは、それだけで「これは読まねばならない」というご縁を強く感じます(というより私の準備が整ったのかもしれません)。

そもそもパウロ・コエーリヨというそれほど知られているとは思えない(失礼ですね・・・でも私のまわりで好きだという人、知っている人はいなかったのです)作家の、このタイトルが指定されたということでも、やはり読まねばならないと思います。

それはある意味“奇跡”だと思います。
聞いたとき、まさかパウロ・コエーリヨの名前が出るとは!と鳥肌が立ちました・・・

(さらにいえば、その他に薦めていただいた本も、うちの母が読んでいてすでに家にあるものでした。「機会も必要なものも、常にいつも目の前にある。それに気づくか否か、選択するか否かはあなた次第」ということなのなのでしょう。すでに持っていました)

そういう“奇跡”って実はたくさん身の回りに起きているのだと思います。気づかないだけで。


本の中身について触れませんが、旧約聖書にでてくる預言者エリヤのお話です。
(話のなかに“主”の天使、守護天使などの天使が何度もでてきます。それもシンクロでした)

読み終えて、2度目の機会にてこの本を読もうと決断ができて、本当によかったと思います。
そして「読んでみたら」と言ってくださったその意味も自分なりにわかります。
その気持ちだけでもとてもありがたいものです。もちろん弟も含めて。

やはりちゃんと必要なものが必要なときに、(卒業しない限り)何度でも起こるものだと、この本の内容からも、この本を読むきっかけからも感じます、といかそう信じています。

この『第五の山』をはじめ紹介いただいた本について、今度その方とお会いするとき、感謝とともにいろいろお話できたらいいなと思います。
楽しみがまた一つできました。
「逃げなかった」というだけ
自分のなかで苦手としていること、プレッシャーに感じていること、たくさんあります。
自分でやると決めたのに、なぜ来てしまった・・・なぜこれを選択した・・・やると言わなきゃよかった・・・なんて思うことも多々あります。

昨日は空手の昇級審査でした。
小・中学生20人ほどに、大人は私一人・・・。
さらにその審査を見守る父母のなかにはうちの社員もいる(!)、同級生もいる(!)
さらについ先日ある実習でうちの会社に研修に来られた方もいました(驚きました・・・)。

人前で何かをやるというのは私にとっては、とても苦手なことの一つです。
とてつもなく緊張しました。(子どもたち立派でした)

昇級審査以外でも、何でも、いつでも、いつもそんなふうにガクガクしながらやっています。
その結果も、なかなか満足いくものではありません。審査でもある型では一挙動をすっ飛ばしてやり直しましたし・・・。

ここ最近そんな緊張することがたくさんありました。
いつも、あ~だめだったな~失敗したな~迷惑かけたな~恥ずかしかったな~と思います。


ただ唯一がんばったなと思うところをあげれば、「逃げなかった」というだけです。
そうだった。それだけはいえるな。そこはがんばったな、と今書いていても思います。

「もうあとは逃げねぇ」と、きつかった20代に決心してから、それだけは守るように心がけています。

これでいいのか、これがどうつながるのか、何になるのか、全くわかりませんが、無駄のことは何もないと信じてまずは目の前のこと、やると決めたことを少しずつでもやっていこうと改めて思います。
(でもほんと緊張するんですけどね~)


今日のブログは、特に自分に向けて書いています。
あなたは何をしているのですか?という問い
田坂広志さんの「風の便り」特選第79便に「二人の石切り職人」という話しがあります。
田坂広志「風の便り」79便

(この「風の便り」は至言の宝庫だと思います。)

私もこの石切り職人のように、「あなたは何をしているのですか?」と問われたら、どう答えるかと考えます。

私の仕事は、会社経営でも、社長でも、“人に指示をすること”でも、“確認印や決済印を押すこと”でも、“新規事業を立ち上げること”でもありません。

私の仕事は
「お客様に喜んでいただくこと、喜んでいただけるものを提供し続けること、そしてどのような状態になっても安心して生活できるインフラとなること」
「社員とその家族が、安心・安定して暮らすことができること」

この文章を読んで、ときどき確認します。
“その仕事の彼方に、何を見つめているか”

誘惑に惑わされながら、自分の弱さに相対しながらも、そこからはずれないようにしたいと思っています。
世界を広げたい
一昨日、ある会議で上京した際、その終了後に都内にある空手道場にて出稽古をさせていただきました。
二度目でしたが、この時期は初めてで灼熱地獄と聞いていたとおりの暑さと、信じられない運動量を目の当たりにしてきました。

稽古が始まる前から、とんでもないところに来てしまった~と後悔したり、ハードな練習に「俺、もしかしたら死ぬんじゃないか」などと(けっこう本気で)思いながら参加してきました。

稽古も進んでさらに心身ともに限界の状態になると、そんなことも考えられず思考そのものが止まっていき、余計なものがどんどん削ぎ落とされていくような感覚になりました。

いろいろとこだわっているもの、わだかまりが霧散していき、どうでもよくなるといえばいいのか、「自分がここにいるだけ」という状態になります。
ただ「生きてる」っていうことだけに集約されていく感覚といえばいいのでしょうか。

そんなことを経験することができました。
ほんとにたくさんお気遣いいただきながら、なんとか無事に終えることができました。


せっかくご縁をいただけたら、世界を広げたい、いろいろな世界を見てみたいといつも思っています。
しかし、実際にそうするところまで勇気がなかったり、やってみるととんでもない目にあって後悔したり、まわりにご迷惑をかけたり・・・そういう恐怖感が常に頭のなかをグルグルしています。

ですが、「やらないで後悔するよりやって後悔するほうがいい」という信条を持っているので、今回も思いきって飛び込んでみました。
そして(たくさんご迷惑をおかけしましたが・・・)やってみてよかったな~と思っています。稽古はダメダメでも、あの場、あの空間にいれて見ることができただけでもよかったです。まさに「何事も経験」であり「百聞は一見に如かず」でした。

N師範を始め、ご紹介いただきましたS先生ご夫婦、そして道場の皆さんには心から感謝申し上げます。

ありがとうございました!押忍!
備忘録:会社と自分を変えるということ
窪田良著「極めるひとほどあきっぽい」を読みました。
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(2013/05/27)
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眼科医から研究者へ、そして起業家へと様々なチャレンジをされてきた半生がちりばめられていて、とても素晴らしい著書でした。

私がこのなかで、とても印象に残っているのがこんなところです。

「新薬開発は化合物の「探索」と見つけた化合物を薬にしていく「開発」に分かれており、臨床試験は開発に当たる。ここで求まられるのは(中略)クリエイティビティよりも、クオリティの高い作業を繰り返しできるオペレーショナル・エクセレンス(優れた執行能力)が必要になる。対極にあるクリエイティビティとオペレーショナル・エクセレンスの融合ができるか否か。それがバイオベンチャーが飛躍できるかの試金石になる」

(新薬開発に必要な化合物の「探索」でその化合物が見つかったのなら)「どこかの段階で組織を作り、指揮命令系統を整理し、日々オペレーションを洗練させていく必要がある。あるところでベンチャー企業が倒産したり、成長が鈍化したりするのは、クリエイティビティからオペレーショナル・エクセレンスに上手くギアチェンジできないことが原因だ。」


最近もある方からこのような話は聞きました。
会社のなかで、それこそ創業時から二人三脚、片腕として一緒にやってきた社員がいる。
しかし、会社が順調に発展してくると、一人の社員としては優秀であったのに、社員たちを教育する立場、まとめる立場には全く向いていなかった。辞めてもらうべきか、それともこれまでの恩義と苦労を鑑みて、目をつむるか。

社長の心情としてはこれまで苦労を共にしていきただけに辞めてもらったり、降格してもらうことに躊躇する気持ちはとてもよくわかる。
しかし、そこでその社員がその立場でいると、いろいろな弊害が起きるのも事実。
さて、社長はどういう決断を下すのか(これに正解なんてありません。あるのは決断のみです)

私も同じような経験があります。
10人くらいの部署を率いるのと、80人くらいの組織を率いるのでは、10人の部署の延長線上では不可能だ。そこで求められるスキルや視点、リーダーシップは全く違う。
だから10人くらいの部署を任せられる人がそのまま80人くらいの組織(部署が複数集まる)を任せられるかといえば、違う。
それが分からず、支えられずにずいぶん辞めていったこともありました。

それは私個人も同様だ。社員が30人だったときと100人を超えたときとはオペレーションも考え方も組織体制もすべて変えなければならない。
そうしないといろいろなところに支障がでてくる。

それは「これいいですか?」「いいよ!」で済んでいたものが、いちいち稟議書を出さねばならなくなるみたいな感覚だ。
だから「昔はよかった」「あのころはよかった」という社員は残念ながら袂を分かつしかなかったりする。

やはりその段階に応じて、会社を変えていかねばならない、それは自分が変わることでもある。
せっかく売り上げが伸びても社内体制や社長の意識が変わらずに、さらなるブレイクする機会を逃し結果として凋落していく会社や組織を見てきた。
その変化には、一緒に苦楽を共にしてきた社員たちとの別れもあり、それは心情的にもとてもつらいこと。ときには恨まれることもあるかもしれない。

しかし、会社の環境や状況に応じて常に自己変化を遂げていかねば、その変化に適応できる社員たちでなければ、会社の発展はない。(だからこそ、その会社の、その社長の大儀、志、理念はとても重要なことなんだろうとここでも思います)


この著書では、そんなことを再確認させてもらえました。
喜びを感じるとき
新年度が始まって丸三ヶ月が経過しました。

三ヶ月前ある部署のリーダーとなった社員。
つい先日緊急を要するトラブルに見舞われ、それをきっちり対処してくれていた。
(私に報告があったのは、すべて終わったあとでした。見事にすべてを処理してくれてました。)

その社員、三ヶ月前に初めてその立場についてもらったときには、顔色悪く「緊張して、異動が決まってからあまり眠れないんです」と言っていた。

何をするにも緊張するし怖かったろうなと思います。
しかし、日々の業務をきっちりこなし、起こることから逃げずに立ち向かってきた証として、たった三ヶ月でも自信がつき、自社、他社問わずまわりからも頼られるようになり、顔つきに余裕もでてきました。

そういう成長した姿を見たとき、私が仕事をしていて最高に喜びを感じる瞬間の一つです。
同時にそれは私自身の励みでもあります。

私もこの三ヶ月で成長できているのかわかりませんが、その社員たちの姿に感謝して、見習ってがんばりたいと思います。

こういう素晴らしい社員たちがたくさんいてくれるので、その部署も会社全体も毎年売り上げは過去最高を更新し続けています。
第一四半期が終わり、今年も更新できそうな勢いにあります。
感謝です。
キャッシュフローの大切さ
経営者であれば誰もがそうだと思うのですが、事業をやっているとキャッシュフロー(資金繰り)の大切さはもう尋常じゃないほど常に常に常に頭にあります。
現在のストックがどうなっているか、月次や数ヶ月先までの収入見込み・支払い見込みの予想、何かの事態が起きてお金が必要になる場合、瞬時に判断できるようにしています。

どんな黒字であっても、一度でも支払いを決済できない事態が起これば倒産です。
例えミスで支払いが遅れたとしても、そこで失う信用は計り知れません。

学生時代にアルバイトしていた会社(誰でも知っているような大きな会社)で、バイト代の支給日にある営業所全員の給料が入らなかったことがありました。原因を調べると、たった一人のバイトの名字が一字間違えていた(タナカがタノカみたいな)ため起こったものでした。
その翌日には普通に振り込まれてましたが、それだけのことでも「うちの会社は大丈夫なのか」とバイト仲間で話題になるほどでした。


一週間前、ある銀行の局長さん(といったらどの金融機関かわかりますね)に、7月5日に○○円のお金を引き出しますとあらかじめ連絡をいれていました(ある一定の額以上の金額になるとあらかじめ連絡してほしいと言われているのです)。
伝えていたとおり、今日引き出しにいったら窓口の方が「聞いてませんので用意できてません」とのこと・・・。

これは金融機関として絶対にやってはいけないことだろう。
もしそのお金が何かの支払いのために必要であったら・・・何か決済するためのお金であったら・・・そう思ったらゾッとします。幸い今回のお金はそういう類のものではありませんでしたが。

金融機関としての役割を完全に放棄しているとしか思えません。
理由を問い正すと、局長が本社へ送金の連絡することを失念していたとのこと(ありえない・・・)
それにしても、このようないい加減な仕事をする人がいるということもちゃんと想定しなければいけないですね。

なぜこんなことになったのか、今後どうするか、その局長さんとガッチリ話し合いましたが、久しぶりに怒ったな~。
“正直さと誠実さがあなたを傷つける”ということ
マザーテレサの「あなたのなかの最良のものを」という言葉がとても好きで、私の生き方の指針の一つとなっています。
~あなたの中の最良のものを~
10年くらい前に教えてもらい、もう何年も自分の部屋に貼っては眺めていました。

そのなかに
「あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
 気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい」
という言葉あります。

そして会社や社員たちはまさにその言葉そのものに晒されることがあります。

あるお客様の要望に応えようとする。
しかしその要望には様々なリスクが容易に想像できる。
もしかしたらこんなことになるかも、こんなことが起きるかもしれないと。
それを説明したり、いろいろな対策を考えます。(その対策にはお客様の要望はリスクがあるから断ろうということも含まれています)

それでもそのお客様の要望に誠実に応えようとし、こうだったらできるんじゃないかと判断してやってみます。
しかし、その対策の甲斐なく、そのリスクが顕在化してしまうときもあります。
もちろんそのことで責めを負われ謝罪をし、ときには賠償することもあるでしょう。

要望に誠実になればリスクも大きくなったり、リスクをなくそうと思えば要望に応えることができなくなったり。
仕事には(社会でも人間関係でもなんでもそうですね)そんな矛盾や不条理なことが頻繁にあります。

現場の社員たち、マネジャーたちは常にそんなことに相対して闘ってくれています。
そして常にそんなジレンマに悩まされることになります。

そんなとき、私は社員たち(特にマネジャーたちに)に「お客様の要望に正直に誠実であったのであれば、それでよいのだよ」と言います。
「そんな要望は断るべきだった、応えるべきではなかった」などとは絶対に言いません。

「よくやった。(会社としても人としても)そういう姿勢でよいのだよ。やってみて、チャレンジしたことがよかったのだよ」と言い続けたいと思います。

どんな結果も、そこで起こることのすべてを引き受けようと心に決めて、社員たちにそう言い続けたいと思います。

その正直さと誠実さで、私たちの会社を選んでいただいている、存続させていただいているのだと思っています。


今日まさにそんなことが起こり、決意を新たにしました。
苦労の色2
つい先日もあったのですが、社長さんたちとの飲み会や会合があると、ダントツ若い私は「○○くん(私)は全然苦労してないんだから~・・・」みたいなことを言われることがけっこうあります。

さらに妻はいつもにこにこしていて、やわらかい雰囲気なのですが、まわりからは「何も悩みがなさそうでうらやましい」とか「これまで何不自由なく苦労もしてこなかったのだろう」と言われることもあります。

そういうとき私たち夫婦は「そうですか~そうですよね~笑」と言って軽く受け流すのですが、やはり内心ムッとしていたり、疲れたりしています。

私たちの苦労や大変さが軽いとかたいしたことないなんて、なぜわかるんだろう。私たちの何を知っているのだろう。自分の苦労に比べたらたいしたことがなくても、苦労や大変さは主観的なもので感じ方もそれぞれであるのになと思います。

ある人にとってはとてつもない苦労も、他人から見たらたいしたことないことだったり。
自分を基準に比較して(その苦労は苦労で“ご立派な”苦労なのでしょうが)、評することなんて私はしたくない(と思ったり)。

ですが、昨日ブログに書いたご夫婦を見てても、そして一昨日のブログに書いたセラピストのAさんと話していても、“苦労してなさそう”と見られること自体どうでもいいことなんだと改めて気づかされました。

「洋々としている人やほがらかでいる人、いつも楽しそうにしている人が苦労していないと思ったら大間違い、そういう人ほど苦労をしているし、その苦労をちゃんと自分なりに消化してまわりにいろいろなものを与えている。まわりを照らしている。だから気にすることない。そんなふうに見られること自体よかった!ありがたい!と思わないと!」とお話されてました。
(若干話し盛ってるかも・・・美化しすぎているかも・・・笑)

昨日のブログのご夫婦を見ていてもほんとにそうだと思います。
私自身、苦労してます悩んでますって顔している方を見ても、同情や心配はしても陰気臭くて一緒に仕事したいとかお話したいっていうふうには思わないですし、そもそも社内で私が疲れた~大変だ~なんて言ってたら、みんな不安になるでしょう。

苦労の色をだす必要はないこと、むしろ感じさせないこと、「人は人」と思う強さと器を持つこと、お話しながらとても大切なことだと思いました。
そして分かる人にだけ分かればそれでいいよなとも思います。

これからは「苦労してないでしょう」と言われたら、「よし!」と内心思うようにしたいですね。



それにしてもセラピストのAさん、人間としてほんとに尊敬でき大きい方。
この方も信じられないほどの努力に努力を積み重ねてきたこと、今もとても厳しく律しているところがお話しや佇まいの端々に見えてくるのに、その努力や苦労を一切感じさせずにとても自然体で明るく楽しくお話していらっしゃるところが素敵です。お会いしている間中、妻と三人で爆笑、爆笑でした。
そして自分の生き方を決めた強さを持ち、内側から煌々と光り輝いています。
(そんな評するようなことを言ってすみません)

私も大好きなパウロ・コエーリヨの「アルケミスト」の話しがでてきたときは鳥肌が立ちましたし、他にもいろいろな本も教えてもらいましたので、さっそく全部発注しました。

尊敬するご夫婦といい、Aさんといい、そういうご縁をいただけてありがたいな~とつくづく思います。
苦労の色1
とても尊敬する経営者の方がいます。
先頃、会社を息子さんにゆずられ引退されました。

昨日、ドイツ旅行から帰国されたばかりのその方の奥様とお会いし、旅の話とともにお土産までいただきました。
ご夫婦で親しくさせていただいており、いつも海外にいかれるとお土産をいただきます(お心遣いに感謝しております)。

昭和30年代に当時の西ドイツにて畜産を学ばれ、畜産業を営んでおられます(今回のドイツ旅行ではその思い出の地も含めて巡られたのでした)。
その当時、地方から海外へ留学するというのはそれだけでもほんとに大変なことだったと思います。
(ちなみにその方の商品は高級品のため、地元では流通されずすべて首都圏のみで流通しているとのこと。一度頂いたのですが、驚くほど美味しかった・・・)

そのドイツ時代からこれまで、このご夫婦はどれほどの苦労や困難があったのだろうかと思えば想像を絶するものがあります。「50年くらい前にいたときとは、全然変わっていた」とさらっとおっしゃっていましたが、ごっ50年前・・・ですもんね。

しかし、そのご苦労の色を、このご夫婦は普段は全く見せません。
苦労したという顔も、こんなことがあった、こうしたということもひけらかすこともありません。

そこがとてもすごい!と思うところであったりします。

その旦那様の佇まいはいつもほんわか、やわらかく、これまでのご苦労を感じさせることもなく、虚勢を張ることも鼻にかけることもなく、群れることもなく、飄々と自然体。
その語り口もとても静かで温厚、しかし言葉の説得力、そして何よりその方が纏っている雰囲気、オーラは、私などとは全く違う高尚なものを纏っています。

その姿に尊敬するとともに、私の憧れでもあります。
いつかそんな雰囲気をもつ人になりたいなと思います。

いかにも苦労したという顔をわざわざ見せる方、アピール?する方もいますし、誇示したい方もいます。
会社が隆盛するにはほんとに大変な苦労があるでしょうし、「こんなに大変だった」と共感してもらいたい気持ちも私自身もあります。それで救われることもあります。

しかし、その苦労の色を見せない、感じさせない、その姿はとても清々しく、私が憧れてしまうようにその存在そのものが人を魅了したり、勇気を与えたりするものではないかと思います。
まさに「その存在がすべて語る」ということかもしれません。

やっぱりこのご夫婦は素敵だな~と改めて思ったのでした。


このことは昨日のブログに書いたセラピストのAさんとの会話から考えたことでした。
そして同じテーマで明日も続きます。



その奥様との別れ際、「お互いいろいろあるけど一生懸命仕事がんばりましょうね」といわれ、その言葉の温かさにうるっときてしまいました。
なんとなんと温かく愛情深い言葉なのだろうと思いました。ありがたいです。ほんと。
ご褒美のような
ご縁とはほんと不思議なものだとつくづく思います。

毎月ある勉強会でお会いする、セラピストをされている方と今回プライベートでお会いする機会がありました。

ほんとに楽しかった・・・。

その方と妻と私でいろいろなことを話し、たくさん笑い合った2日間でした。
あまりにも楽しすぎて、最終的には時間と体力と睡魔との闘いでした。

ときどきこんなご褒美のような出会いやご縁に恵まれます。
それはもう「あ~生きててよかった~!」と心の底から思えることの一つだったります。

いろいろな人がいて、いろいろなことがあるなかで、人に傷つくこと・絶望しそうなときもありますが、それでもやっぱり救われるのも“人に”であったりもします。

だからあきらめたり、遮断して自分の世界に閉じこもっていたらだめだよなと思います。
いろいろなことから逃げたり、希望を捨てたり、あきらめたりする必要もない。

あと何度そんなご縁に巡りあうことができるのか、
あと何度「あ~生きててよかった!」と思える瞬間があるのだろうか。
願わくば、その瞬間をたくさん作っていきたい。

そしてそんなご褒美のような思い出を積み重ねていく、それが自分にとって「生きていく」っていうことなんじゃないかと、楽しかったな~という思い出とともにちょっと考えていました。

さて今年も無事に折り返しました、下半期もまたがんばります。




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