日々のこと
感じたり、考えたりしていることを綴ります。
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至言
思えば、自分が壁にあたってジタバタしていると、ヒントとなる話しを聞けたり、ぴったりの本に出会ったり、そんな機会を得ることがたくさんありました。
今、目の前に起こること・有るものに気づいたら、それは今の自分に必要なものだったりしました。

昨日は月に一度の勉強会の日。
ここでは本当に尊敬している方たちが集まります。

いつもそうなのですが、今回は特に今の自分に必要な機会となりました。

勉強会にいらっしゃる方たちといろいろお話をさせていただくなかで、ある方から今の自分にビシビシと響いてくる言葉をたくさん頂きました。

ご自身もセラピストとしてお店をされて第一線で活躍されている方、その言葉一つ一つが心に染み渡っていくようでした。

「自分がもっているものを絶対出し惜しみしない、それで喜んでもらいたいし、喜んでもらえたならそれが私の喜び」

「喜んでもらうことが巡り巡って自分の幸せにつながっている」

「この世の法則(ルール)に気づいた(知ってしまった)。だから、私はその法則を絶対に守っていこうと思っている」

「人がどう思うが何言ってこようが何やろうが関係ない。ただ自分がそう思っているからそうしているだけ、それでいい」

「お役目があるから、たくさん宿題を課せられる。それがすでに神様に愛されてる証拠」

身に起こることとも相まって、自分のなかに感覚的にあったピースがどんどんはまっていくようでした。

妻と一緒にほとんど爆笑しながらお話していましたが、本当に素晴らしい言葉をたくさんいただきましたし、楽しい時間でもありました。

思えばこんなことってこれまでもたくさん聞いてきたようにも思います。
でもここまで沁みてきたのは、今の自分に必要な言葉だったのと、その方がまさにそんな生き方を貫いていらっしゃるからでしょう。

ここ最近、自分は全く望んでない、できれば関わりたくない、興味もないと思っていることでも否応なく、そうせざる得ないような状況になっていったり、いろいろな利害関係にも巻き込まれそうになったりすることが頻繁にありました。
しかもそのスケール(関わる事案や人も)がどんどん大きくなっているとも感じていました。
組織を代表しているので、それはもうしょうがないのですが、やはりどう対処したらいいのかわからなかった(というよりうんざりしていた)のです。

でもそれらもまた“宿題”なんですね。
必要だから起こっているのでしょう。

その方の考え方、起こることの解釈の仕方、ものすごく共感できて参考になりました。

今、自分には力が満ちてくるようです。
このことを一つの転機・きっかけとするべく、これからがんばっていこうと思います。

その勉強会では素晴らしいご縁がたくさんあります。
ありがたいです。ほんと感謝ですね。


その方と話していて、まだまだたくさん刻みつけたい言葉や考え方がありますので、少し続きます。
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受け入れていく妻
仕事柄か、田舎だからか、まわりから気にかけてくださりいろいろ言われることがあります。

それが“私にだけ”であればいいのですが、妻に向けられることも往々にしてあります。

「早く○○したほうがいい」
「○○したら○○するものだ」などなど。
妻は特にそういう“まわりの期待や気づかい”にさらされたりします。
(私と一緒のときは言われず、妻が一人のときに言われることも多いです)

話す方は本気で気づかっているのかもしれません、悪意も全くないこともわかります。
が、私たちからすると余計なお世話以外の何ものでもなかったりします。

基本的には「ほっといてほしい」と思っても、そう言われることがあまりにも普通にあるのと、仕事や人間関係の兼ね合いもあり、また悪意もないため(そこがまた厄介なところでもあり)、私たちも角が立たないよう、気にしないよう受け流すようにしています。

そういうときの妻の対応は、とても見事で素晴らしいです。

ですが、やはりそういうところに疲れてしまったり、なぜそんなことを言われなければならないのだろうと思っては落ち込んだり、怒ることもあります。当然だと思います。

二人だけのことだと思っていても、「こんなふうにまわりから興味をもたれ、いろいろ言われることもあるんだな~」とそんな状態に最近妻も覚悟を決めた(慣れてきた)ように思います。

私がそこに介在することもできますが、いろいろなことを察してくれ、そうしてほしいとは言いません。
そんな状況を理解してくれ、そして少しずつ受け入れていく妻を見ていてほんとに偉いな~と思います。



明日はそんな妻の誕生日。
欲しいものを尋ねても「満たされているから、欲しいものが何もない」とのこと。

目下の願いは、そんな妻に何か欲しいものができることです笑

温かい言葉
いつも拝見しているブログのなかに、開業して10期目を迎えられたある会社の社長さんのブログがあります。
(月に一度ほどお会いする機会があります)

普段ちょこちょこコメントさせていただいているのですが、返してくださったコメントを見ていて、励まされ軽くなる自分がいました。

そのコメントには、自分(その社長さん)も、いろいろな創業社長さんたちから聞いたという言葉が綴られていました。

お会いして聞いたわけでも、直接お話したわけでもないのに、この言葉の温かさが心に沁みてきました。

仕事をしてても、実感としても、言葉一つで元気になったり、やる気になったり、救われたり、逆に落ち込んだり、虚しくなったりもします。

こんなふうに感じることがあって、改めて言葉の力というのはとても大きいと感じます。

なにより、「その社長さんが発している言葉」だというのが、一番大きいのでしょう。

私も発する言葉を大切にしたい、そしてそんな言葉一つでやる気にさせたり、勇気づけられるようにいつかなれたらなぁと思います。

ありがたいな~
機窓からの景色
仕事をしていると、その仕事の世界の価値観や論理というもので話しが進んだりします。

やはりその業界の理屈や常識、その業界へのイメージ、そしてそのなかにいる人たちの「そういうものだ」という固定観念に、影響を受けたりします。

そのなかにだけ、どっぷり浸かっていると、そこから外れていること・違うことに、不安になったり、まわりから「それは普通じゃないでしょ」とつっこまれたりもします。そしてそこからはずれていると、まわりから“浮いたり”します。

私は基本、天の邪鬼タイプですので、「みんなと同じ」とか、「普通」ということにこだわることもありません。
むしろ同じじゃないほうがいいと思うことのほうが多いです。

普通ってなんなんだ?普通じゃないことが何か問題なのか?常識って常に変わっているのに、常識にこだわる必要って?などと思います。
が、別にそれをまわりに強制することもしませんが、その考え方は変えようとも思いません。

ですが、そんな強気でいても、やはり孤独感を感じたりすることがあります。
「それでよいのか」という答えのなさに、そしてその問いそのものを考える意味もないのだと分かっていても、悩んでしまったり、悶々としてしまったりします。

そんなとき、月に一度か二度飛行機に乗って空からの景色を見ているだけで、けっこう救われたりします。

とてつもない上空から地上をみていると、自分がいかに狭い視野・価値観で見ていたのか、そして悩んでいたかに気づきます。たった一つの視点(常識とか価値観とか)から見ただけで、(常識や価値観に)“とらわれること”なんて何もないんだと思います。

先日の帰りの便でも「うん、俺は自由だ」と、確認できました。

飛行機の機窓から見える景色はそんなことを感じさせてくれます。
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楽しんできな!
昨日友人の結婚式に参列させていただきました。
(今年は結婚式が続いています。先月は仙台にて、そして昨日は東京にて、そして再来月は地元でうちの社員同士の結婚式もあります)

結婚式はとてもいいですね。
この友人は高校から付き合いなので、とても感慨深いものがありました。
都内は朝から雨足も強かったのですが、ちょうど昼すぎくらいには止んで、ほんとよかったと思いました。


今回、上京するときに妻から「もうみんな結婚して、友達だけで会うなんてこのあと滅多にない機会なんだから、とにかく思いっきり好きなだけ楽しんできな!」といわれ、送り出されました。

たしかに広島から参加する友人(この友人が先月仙台で挙式しました)とは今度いつ会えるかわからないな~と思います。東京にいるならまだしも。

この友人とは住んでいるところはこれまでも遠かったのですが、互いに独身でフットワークも軽かったので結婚前にはちょくちょく一緒にいろいろなところへ行ってました。ですので余計そう思います。

「友人と会う」たったこれだけのことですが、今となってはこういう機会と時間は、とても貴重なものとなりました。直接会って、互いの近況や悩みを相談したり、どうでもいいことを話したりすることがもうなかなかできないのだと。

そういう意味でも、思い出深い上京となりました。
そしてそんな機会を分かってくれ、快く送り出してくれた妻にも感謝です。
影響を回避する
仕事をしているといろいろな人間関係がありますし、いろいろな情報が入ってきます。
それは社内に限らず、業界団体でのお付き合い、それぞれの組織の価値観、社会の雰囲気、人からの敵意や妬み、人の噂なども含めて。

それらに影響を受けることが多々あります。
それは自分が人付き合いがこの上なく苦手ということともつながってくるのだと思います。
(やはり人から受けるものはものすごくたくさんありますね)

先日も業界の集まりがあったが、そのなかでいろいろなことを感じました。
ほんとにいろいろなことを。そしていろいろ考えさせられたりします。
「このなかに浸かっているとまずいな」と思ったり・・・。


なぜ苦手なのか、なぜそんなふうに影響を受けてしまうのかを含めて考えていてちょっと思い至ったのが、いつでもどんなことがあっても、自分が誰なのかはっきりしないと迷いまくるということ。

自分が誰かはっきりしないというのは、自己を確立していないというふうにもいえる。
自分のセンターともいえる自己を確立する必要を感じます。

でも問題はどうやって自己を確立するかですね。
それはまだまだ途上です。


今日ある文章が届き、新しい展開新しい世界が開きそうな予感がします。
それは自分にとって苦手なことと向き合わねばならないことでもあります。
このタイミングで届いたことも、またいい機会・チャンスだと思って、飛び込んでみようと思っています。

話が飛びまくってて着陸点が分からない文章ですみません。
ちょっと頭が混乱しているということで・・・
ここ一年ほどのテーマ
私にとってここ一年ほどのテーマというのがありました。
それは簡単にいえば「黙って見守る」ということ。

そのテーマで妻ともいろいろ話し合っていました。

私はどうも自分のなかで“これは許せん”とか“それじゃだめ”とか“こうしたらいい”ということに気づいたりすると、それをやっている相手に口を出すことがありました。

例えば、先日ブログに書いた学生となった弟にも、そんなこといろいろ言ってとても険悪な状態になったこともありました。そして合格した今も、今後の学費や生活費のことについて心配している自分がいたりします(別に相談されたわけでも、そんな状況になるとも決まったわけでもないのに・・・ただ学費やら寄付金やらですごい金額が必要になるという事実のみで・・・)。

いくら友人や身内でとても思い入れがあるとしても、善意でやっているとしても、その人の人生はその人のもの、どう生きるか、どう選択するかもその人が決めること。
本人が望んでいるならともかく、本人が望みもしないのに、「こうしたらいい」とか「それはしないほうがいい」などと言われるのは、余計なお世話以外何ものでもないでしょう。

そのテーマについて、いつも読んでいるブログでとてもタイムリーにそのテーマとつながることが書かれてありました。
それを読んでいて、う~む!まさに自分のテーマがここにある!というのと、身に覚えがありすぎる・・・とも思いました。

「黙って見守る」とは、「ありのままをすべて受け入れ肯定すること」ともつながってくるのではないかと思います。
以前、妻からも「黙って見守ることほど大変なことはないよ。信じきるってことなんだから」と言われ、本当にそうだと思いました。

まだまだ迷妄することもありますが、いつかかき乱されることなく心穏やかに大切な人たちを見守ることができたらいいなと思います。

ここ一年そのことが自分のなかで大きなテーマでした。
一年前と比べてどうなったのか、う~自分では成長できているのかわかりません・・・
起こるときは起こる
あるブログのなかで、今の心情ととてもリンクした言葉がありました。
『以前であればブラック・スワンと呼ばれた、確率論的には数百年に一度も起こり得ない事象が、毎年のように起こっている。』という言葉。

「うんうん、ほんとそうだ」と納得してしまいました。
先日の土曜も関西で地震があり、ミサイルも飛んでくるかもしれません。

そのブログでは、リーマンショックに、震災、北朝鮮など地政学的リスクなどマクロ的なことが書かれていましたが、私もここ数年自分の人生に「まさかこんなことが起こるとは」なんてことがたくさんありました。

仕事のほうでも、個人的なことでも、もう「ひえ~とかゲゲッとかマジか・・・とかまさか・・・」などということがたくさんありました。

そして事業も手を広げれば広げるほど、起こることの頻度と種類はどんどん増えていくことをしみじみ思います。(しみじみ思うまでにもいろいろな心理状態を経てきました・・・)
大きな会社の社長(特に創業者)などは、それらを乗り越えてきた方でしょう。

何が起こるか分からない、いつだって“何かが”起こるときは起こるという認識でいなければならないと思っています。

大事なことは、その“思いがけずも起きた現実”を冷静に分析して、どう行動するかだけだな~とただただ思います。
何をどう予防しようが、備えようが、絶対に起こってほしくないと思おうが、もうそんな想定や思いをはるかに越えたことが降ってきますし。

ここ最近こんな心構えというのは、ものすごく大切なことだと改めて考えています。
絶対にあきらめない
弟が今年から大学生になりました。

すでに30代となっていますが、5年前に「医者になる」決意を固め、受験勉強を始めました。
今年4度目にしていくつかの医学部に合格することができ、今月から通い始めました。

4回目の受験で行けることになりましたが、ここまでくるには本当に大変だったと思います。

受験勉強を始めたとき、もともと卒業した学部も文系だったということもあり、理系の科目はほとんど最初から始めるような状態でした。実際、数学は一次方程式からやり始め、化学や物理は中学“理科”から始めていました。

「受からなければどうしよう」「まわりの期待と失望」「自分の年齢のこと」「今後の生活のこと」そして生活費や学費など「お金のこと」、いろいろなことを考えたと思います。
今年もだめだった、今年もだめだったとなるたびに絶望し、また勉強にむかっていくのは相当きつかっただろうと(などという言葉で表現することがおこがましいほどでしょう)も思います。

「真っ暗闇のトンネルをひたすら全力疾走してる感じだったな~全然先が見えなかったよ。」と合格したあとに話していたのがとても印象に残っています。

今回の受験をみていて、弟ながらほんとにすごい!と感動しました。
絶対にあきらめなかったのだよな~と。

これもまたプロセスの一つ、まずは「医学が勉強できる」という立場になっただけ、医者になったわけでも、医者として勤めているわけでもありません。弟の決意が叶うのはまだまだ先です。
ここからまた大変な困難な状況がたくさん待ち受けているのだと思います。

しかし、苦しみながらもどんな状況になっても必ず乗り越えるのでしょう。

この「絶対にあきらめない、できるまでやり抜く」という意志と姿勢は私にとっても本当に励みとなっています。
(そしてもう一つ、その弟が受験勉強に集中できる環境をつくり、必ずできると信じて支えた人もいます。それもまた(むしろそれこそ)本当にすごいことです)


ここ最近、自分の仕事への姿勢を確認したり、父のことを思い出したり、弟のがんばりを一つずつ思い出しながら、少しビビッている自分の気持ちを刺激しています。

そんな人が身近にいるというのは、それだけで恵まれているな~と思います。
20回目
もう10日以上過ぎてしまいましたが、4月1日は開設記念日でした。
法人の設立記念日はまた別にあるのですが、私がいる今本社となっている事業所が開設した日です。

今年で20回目の開設記念日です。
そこでいろいろなことを思いました。

亡くなった父には多くは聞かなかったのですが、一度移動中の車のなかで創業時の話を聞いたことがあります。
その創業の経緯や、なかなか免許(認可)がとれずにいたこと、まわりは大反対など。

聞いているこちらがびびってしまうほど、凄まじい状況でした。
「眠れなくなるくらい、血尿がでるくらい、それくらいたいしたことじゃない」と言っていたことや、その父の迫力と想像を絶する状況にしばし呆然となったことを思い出します。

私たち兄弟はのうのうとそんな状況も知らず生きてきましたし、お金にも生活にも困るなんて記憶もなかったのですが、一つ一つのことがもし別な方向に向かっていたら私たちの生活そのものがどうなっていたかわからなかったんだと初めて知りました。

「一歩間違えたら、自分たちの生活なんか吹き飛んでしまっていたんだ」とそのとき初めてわかり、息が詰まりました。そんな状況を私たち兄弟には微塵も感じさせなかったのにも、ただただ頭が下がりました。

私が小学生くらいの創業して間もない頃、10人にも満たない社員たちの忘年会を、経費節約のため実家で母の手料理で、やっていたことも思い出します。

それが今は社員も多くなり、それぞれの事業部ごとやさらに部署ごとでなければ飲み会の場所の確保にも苦労するようになりましたし、社員同士でも一年に一度くらいしか会わないという状況にもなりました。

いつもいつも思っている、0を1にする苦労に比べたら、1を100にする苦労などたいしたことじゃないと思う理由がここにあります。

20年というまた一つの節目にあたり、そんなことを考えてました。

この先の20年、まだ存続することが許されるのか、それとも役目を終えるのか、それはお客様に喜ばれているか否かでしょうが、どんな未来が待っているのかはわかりません。

ですが、喜ばれることも状況も常に変化し続けるなかで、私たちも常に変化し適応しながら、全力で喜ばれるものを提案・提供していこう。
その決意だけは自信をもっています。

20年も続けさせてくださり、お客様、社員、関わってくださっている皆様、そして父に母に家族に、そして最高のパートナーとなった妻に、すべてに感謝です。

父に「お前にその実力がなければつぶれる。それだけだ。」と言われたことを、苦笑いしながら噛み締めたいと思います。

確認中
ここ数日いろいろ確認中です。

仕事をしていて最高に嬉しいときってどういうときだろうと考えています。

・お客様にお役に立って、喜んでいただいたり、お礼をいただけたとき。
・「自信がない」「できるか不安」といっていた社員がその組織をまとめ、きっちり結果を出せるようになってきたとき。
・新人が仕事を覚えて、先輩社員から一人立ちするとき。
・社員たちが会社のなかでどんどん成長しているのを感じたときや楽しそうに仕事をしているとき。
・新しい仕組みを考え、それが実行され、うまくまわり始めるとき。などなどなど。
・「利益は顧客満足の総和である」という言葉をもう一度噛み締めたり。

前へ進むためにも、いろいろなことを整理したり、準備したりすることが必要な時期かもしれません。
次の展開を考えたり、実行するのにびびってるなと思います。

いろいろなことを勉強し更新しながら、心の底から湧き上がる衝動を待っています。
自己評価とまわりの評価
先日ある社員から、会社での自分の評価が低すぎるという話しがあった。
その方は自分のやっている仕事の内容と待遇が、まわりの社員たちの待遇と比べて低いと思ったようであった。(若干妬みも入っているかな)

「自分がまわりの社員よりこんなに働いているのに」という気持ちはとてもよく分かる。

だが、「自分がこんなに働いているのに、これだけがんばっているのに」という気持ちや思いは、お客様からの評価にはそれほど関係なかったりします。

お客様にとって一番大切なことは、よい商品であるのか、よいサービスであるのか、そして喜んでいただけたかということに尽きます。そしてそのことと努力が一致したときに初めて会社としても、人としても存続することが許され、評価されたことになるのでしょう。

このようなお客様からの視点ということが、私たちの社員たちへの評価にもつながっています。
会社にとってどういう成果をもたらしてくれたかが、評価する上で一番大切なことだと思っています。
少なくとも私の視点ではそうです。

自分はあの人よりがんばっている、もしくは一生懸命やっているという視点だけで評価するというのは会社にとって良いこととはいえません。
もしそういう評価の仕方をしてしまったらどうなるか、お客様が不在となるでしょう。

世の中の経営者や自営されている方、事業主の方で努力してないという人などいないでしょう。
ですがある会社は存続でき、ある会社は存続することが困難となる。そんな現実があります。
そこはやはり“努力そのものの大きさ”とは違うのでしょう。

自己評価をすることはいいことです。
ただその評価とまわりの評価が一致するとは限りません。

「成果と努力は必ずしも一致しない。だけど成果を上げている人は例外なくものすごい努力をしている」ともいえるかもしれません。


あの人が・・・あの人より・・・と話しているのを聞いていて、そんなことを考えてました。
全く同じ興味
私にはとても興味があって、自分一人でいろいろ勉強したり、実践してきたことがあります。

それはまわりの人たちにはあまり理解されないことでした。
(別に怪しいものではないのですが、人は分からないものを無分別に毛嫌いする傾向はありますので)

自分が世の中の動きに興味があるのも、歴史に興味があるのも、そこから派生しているということもあります。

しかし、そこに全く同じ興味をもったパートナーが見つかりました。
妻です。

まだ結婚する前というか付き合ってもない頃、たまに妻と会うと、そのことで盛り上がりました。
妻もまったくまわりから理解されないので、一人で誰にも言わずやっていました。

その妻と思いがけず結婚することになり、そのことでいろいろ話し合えるというのは、なんと幸せなことだろうと思います。
共通の興味があったから、結婚したわけでもないのですが結果として同じところに興味がありました。

今も二人でそのことを話し合っているだけでも楽しいものです。
うまくいくときもうまくいかないときも楽しさにはあまり関係なく。

自分がそのことで勉強してきたことを誰かに話す機会があるというのも思ってもみませんでした。

そんなところからも、人生とは何があるかわからないな~無駄なことなんてないな~と思います。

素直さ
ここ最近、私たちと一緒に仕事をしていた会社とある専門職の方(その会社の仕事を監理するような役割)とが対立し揉めに揉めていたことがあった。

私たちはその対立に直接は関係ないが、関わりがあるといえばあるという微妙なところ。(私たちもその専門職の方には腹に据えかねることも多々あったが、表には出さなかった。その方ともう二度と仕事しないと決めてましたので・・・)

その話し合いが先日行われたのだが、「ミスした分について支払ってほしい」「ミスしてない」という対立であったが、話しを突き詰めていくと、「素直さの欠如への怒り」ということがわかった。

「ミスをした」「調査不足で迷惑を被った」「そもそも間違えていた」なんていうことはよくあること、そのミスそのもののことではなく、そういうことがあってもそれらを一切認めず、その後始末や尻ぬぐいだけを全部こちらにやらされたと(と感じていて)怒っているのであった。

大きな会社の社長が、その規模からするととても微々たる金額で絶対に引かなかったのも、あまりにも信義に反するということを言いたかったのだと思います。(実際にミスした分のお金が欲しいということでもなかった)

私たちもお客様にご迷惑をかけるときもある。失敗してしまうこともある。
非を認め、謝るべきことは謝る素直さをもたねばなと、その対立を見ていて改めて思います。
「誠実であれ、素直であれ」と。

今回は素直さの他にも、信用とは、信義とは、和解への道程とは、いろいろなことを勉強させていただきました。



話と全然関係ないのですが、妻にも素直になれるようにがんばります
(絶対つっこまれそうだったので、先に言っておこう笑)
平常心でありつづける
常に平常心にいる方はすごいと思います。

日々いろいろなことが起こったり、いろんな状況になったりしますが、それでも粛々と淡々とその場のステークスホルダーたちのこだわっていたり、頑なになっている理由や利害を考え、何が最良かを提案する。

そういうことを目の当たりにして、自分も甘さ、未熟さを痛感した一日でした。
いろいろな経緯があるにせよ、ムカッと感情的になれば解決しませんね。

ほんとすごい方と一緒に仕事させてもらえていると思いました。
いつも、そして今日も助けていただきましたし、いろいろなことを勉強させていただきました。

今日はそんなことがありました。

「常にすべてを包括しているような平常心で居つづける」
いつかそうなれたらな~と思います。
存在意義
仕事をしていて思うのですが、(社員でも誰でも)人が輝くときって、やはりその人の存在を認められたときではないかと思います。
私自身もそうです。


先週から体調を崩し、この土日も寝込んでいました。
無自覚の疲労やストレスが一気に顕在化したように思います。
身体が全く動かず、気持ちも陰に沈んでいきました。
(ここ最近体調を崩すことが多いです。不養生なのかもしれません)

とはいっても、昨日から新年度も始まりました。
これから数日にわたり、各部署ごとに新年度の方針についてお話したり、社員たちと面談しながら、辞令をお渡ししています。(私は社員お一人ずつとお話します)

昨日も今日も、場所も変えながら、ほとんどの時間を面談に割いていました。

芳しくない体調のなかでも、社員たちとお話していると少しずつ自分のガチガチに凝り固まった心がゆるむような、ほどけるような感覚となります。

お話しながら、社員たちの目の輝きが変わっていくというのを目の当たりにしたことが大きいのかもしれません。
たった数分の面談でも、笑顔や、決意ややる気というものが伝わってきます。
それが私にとっての喜び、力となります。

「ここが私の存在意義なのかもな」と思いました。
そう思うと、少し軽くなるような、気が満ちてくるような気がしてます。


身体と心はつながっているとつくづく思わされる日々。
ヘロヘロですが、がんばりたいと思います。




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