日々のこと
感じたり、考えたりしていることを綴ります。
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自分なりにかける言葉
そもそも私はとても人付き合いが苦手なほうで、群れるのも嫌い、一人でいることも全然構わないほうだ。
昔はけっこう本気で一人でできる仕事をしたいと探していた。
そしてその流れで、いずれは株で・・・不動産で・・・早期引退生活がしたいなどと思って、その勉強もしていた。(今は思ってないです)

なのになぜか学生時代のバイトは居酒屋で接客をし、そして回送で一人になれていろいろなところへいけると思ってバイトで入ったレンタカー会社では接客をやることになり(たくさん回送もできましたけど)、社会人になった後なぜか教室長として学習塾に勤めることになり、社長と講師、生徒とその父母からいろいろ言われる毎日を送った。

特に塾時代はもうとにかくハードワークで常に疲れきっていた、そしてどんな実績だそうと(売上も4倍になりましたが)足りないと罵られ、たくさんの理不尽な状況、孤独をたくさん味わいました。もちろん私も当時の部下に対しては未熟な対応してました。

今は本職の教師になっている当時学生だった講師たちからも「あの当時、常に目が血走っていて、ほんと怖かった」と言われるくらい余裕がなかった。
もう毎日会社にいくのがつらくてつらくて、まさに“暗黒時代”でした。(サザエさん症候群というのがあるが、日曜昼12時からの「ウチくる」が終わるともう動悸がするという“ウチくる症候群”であったw)

そして現在、自分には向いてない向いてないと思っていた、人と思いっきり関わる仕事、役割についている。(というかそもそも人と関わらない仕事なんてないですものね)
人生ってどうなるかわからない、どこでどうなるかほんとわからない。

苦手なことやつらいことを、“喜んでやる”“進んでやる”そんな必要はないですけど、やらなければならなかったり、やる必要がある状況なら、自分なりにでもやっていったほうがいい。

それら“暗黒時代”の経験は、数年経てのちのちの仕事につながってきたり、やっておいてよかった、経験していてよかったと思うことばかり。

あの時代、“辞めようと思えば辞められる一アルバイト・一会社員”という立場でいろいろな経験をさせてもらったことは、自分にとって宝だ(そう思うにも時間が必要でしたが)。暗黒時代があったから、例えば同じことを自分の社員にはさせたくないとも思えるようになったのだ。

無駄と思えるつらくて苦しいこともそれはそれで必ず意味があるのだと気づかされた。
意味があるのだと思い込んでしまうことも生きる知恵だとも思う。
会社をやっていたら、そんな孤独や苦労など序の口であったことも思い知った。

社員たちがその業務に集中できる環境を整えることが普段の私の役割。
自分がその役割をやると決めた以上、これがつらい、交渉が苦手、あの人が嫌いなどいってられない。
だから例え自分の範疇を超えてることも、絶対逃げずそこに向かっていきたい。(そういう覚悟ができたこともたくさんの方たちの支えがあったからですが)

今は仕事も何が何だかわからないと思うが、あとでそれは必ずつながってくる。
まだ長く暗く先も見えない不安な道のりかもしれないが、逃げずに一つずつ進んでいこう。



まぁ、なんの話かというと、今の慣れない環境、全然やったことのない仕事、会社での人間関係などで日々四苦八苦している妻に“がんばれ”ということを言いたかったのです。


まわりくどいし、わかりずらいし、恥ずかしい文章でした。
そしてここらへんがよく人から「あなたは難しい」といわれる所以だと思います。(自己分析)
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理屈派と感覚派
自分で言うのも恥ずかしいが、私はとてもロジカルに物事をみていくタイプ(だと思う)。
なぜこうなのかということを一つずつ論理的に突き詰めたい。理屈っぽいのでしょう。

対して妻は、超感覚的なタイプだ。
これはそうだからそう。なぜダメなのかはうまくいえないが、嫌な感じがするからダメなどというタイプ。
なぜそう思うのか聞いても、「言葉にするのは難しい。そう思うんだからしょうがないじゃん」と言われる。

以前は「なんで?」となったが、今はもうそう思うならそうなんだろうって思います。(けっしてもう諦めたとかではなく、)それはそれでほんとに正しいことなのです。

先日の勉強会にて、いつもいろいろとアドバイスいただくのですが、「考えないで感じてみることを大切にしてみたら」、「やってみて、忘れる、またやってみて、忘れるを繰り返す」、「奥さんを見習ってみたら」などなどたくさんの至言をいただきました。

たしかに生きてたら、生活してたら、理屈では説明つかないことだらけなので、(嫌なことも良いことも)そのたびにどうして?なぜ?こうなった?なんて考えてもその状況の説明はできても答えなんてでてこない。

そして自分もよくよく考えると、そんなことがたくさんあった。
説明はできないけど、こうしよう、こうしたいとなることが。

そうなるものはなる。あるものはある。聞こえるものは聞こえる。見えるものは見える。そう感じたものはそう感じる、そういう自分の感覚を研ぎ澄まして、そのままをそのまま受け入れられるようになりたいなと思います。(という決心をしました)

そしてそれはいろいろなことの存在を認めることでもあるんですね。
自分の感覚を認めるには自分のことも認めないといけませんしね。

理屈派を卒業して、冷静に分析する感覚派へと少しずつシフトしていこう。
そしてもう少しいろいろな意味でオープンになろう。
(感覚と分析のバランスも正直いって難しい・・・と、また理屈派の癖が・・・笑)

今、いろいろと勉強していることも、日々考えていることも、感覚的に“今はまだ理屈でいいから集中して勉強したい”という衝動にかられているので、その衝動のおもむくまま進んでいきたいと思います。
「とにかく“理屈”を勉強したいと感覚的に思う」ってなんか変ですけど。(笑)

いろいろやってみて、感じたことを次回の勉強会ででもお話できたらいいな。
反省して出直そう
自分の決断がいろいろなところに影響を及ぼすことをもっと自覚しなければならないと思う。

やったほうがいいこと、やらなくてもよいこと、やらなければならないこと、それらの判断が甘かったため、いろいろなところへご迷惑をかけることがあった。

やったほうがいいと判断して進めていたことが、まったくやらなくてよいことだと、進めている途中で分かったのだった。そこで一部をむりやりストップかけたのだ。

そしてこれは明らかに私のリサーチ不足が招いたことであった。
決断するときの判断材料を集める手間をおろそかにしてしまったのだった。

自分の決断はもういろいろな方たちを巻き込んでしまう。
社員や取引先も含めてその事案に携わる方たちすべて。
そしてそれは今後の関係にも関わってくることだ。

ここ数週間とても大きな決断を迫られる事案が立て続けに降ってきている。
数年前に打診していたことや、父の時代に計画していたことが、ここにきてバタバタと動き始めた。
まだまだ決断するための条件がそろってはいないが、一度決断したことを途中で止めるなんてことはもちろんできない。

進めるか否か、そういう決断は本当に重要なことであるからこそ、ここで一度反省して出直したい。
行動力ありますって:勉強会にて
昨日は月に一度の勉強会を兼ねた集まりに参加してきました。

住む場所も仕事もばらばらの皆さんが集まります。
普段あまり接する機会のないお仕事をされている方たちの世界を知ることができたり、それぞれの道でがんばっていらっしゃる方たちの話はとても楽しく、そして勉強になります。

夫婦ともども月に一度の楽しみでもあり、いつも時間と距離の制約にもどかしさを感じつつも、励みともなっている会です。

今回もいろいろな方とお話することができました。

いろいろな方とお話していくなかで、 私もそうだが、自分が考える自分と、人から見た自分ってやはり違うのだな~と、その会にいらっしゃっていたある女性の方と話していて感じることがありました。

その方はご自身でブログなどを活用しながら、自営(でいいのかな…?)をしていらっしゃいます。
そのためその窓口となるブログのことでも、多くのお客様に見てもらうため、興味をもってもらうために、様々なことを試行錯誤しながら実践されていらっしゃる方であった。

ブログから集客するための様々なテクニックやスキルについて、私も“目から鱗”となることがたくさんあり、とても勉強させていただいた。

そんなその方が、ある話の流れで「私は行動力がほしい!」とおっしゃっているのを聞いて、驚いてしまった。
私から見たら、ものすごい勉強をし、そこで得たことを実践する努力も惜しまず、しっかりとそれを生業とされている事実は、並大抵の行動力ではないと思う。

そんなことをお聞きして、(僭越ながら)いやいやいやいや、かなり行動力ありますよ!というお話させていただいたのですが、やはり自分が思う自分と、人から見た自分は全然違うのだな~と思いました。

私から見たら、ほ~!へ~!すごいな~!と思っていても、その本人(自分も含めて)にしたら全然たいしたことないってことたくさんあります。

自分のことを客観的に見てもらうことってほんと大切なんだな~と思います。
そして自分にとって、いつもそんな機会でもある会です。
ほんと楽しかったな~あっという間に時間が過ぎていきます。
わぁ!いいこと聞いた!
今日いつも通っている理容店にいってきた。
ここのオーナーさんと髪を切りながらいろいろお話します。

「この仕事をしているとほんとにたくさんの方とお話させていただくのですが、同じ物事でこうもお一人お一人意見や解釈が違うのかと驚かせられます。」とおっしゃっていた。

(そういうことを見聞きして)「人によって全然見方(価値観)が違うから、何が正しいか、何が悪いかというのもその方しだいなんですよね。だから何をやっても全員が全員“いい!”といってくれるものはないのでしょうね。だから意見は意見としてお聞きして自分がやろうとすること(お店でイベントであったり新しいサービスであったり)は自分でしっかり判断しなければいけないなと思うんです。それがある人たちにとっては全然価値のないことだしても。」ともおっしゃっていた。

とても共感できる。
そうなのだ。自分で判断して行動して、その結果も影響も責任も受け止めていくしかない。

そしてさらに・・・
「自分の仕事っていろいろな方のお話をたくさんお聞きできるので、仕事しつつもその方の立場や状況を疑似体験させていただけたりもするので、ありがたいなぁと思っていますし、恵まれているなぁとも思います。」とも。

素晴らしいなぁ。
純粋にそう思って感謝している心、謙虚さ、そこから学ぼうとする姿勢、そして責任をもって決断しようとする行動力、いろいろなところに心を打たれた。
そりゃ、お店も繁盛しますね~!

わぁ!いいこと聞いた!ブログに書いちゃおう!と思ったのでした。


そしてもう一つこの方を見ていてすごい!こうなりたい!と憧れちゃうところが、“聞き上手”なとこ。
ここもほんと見習いたい・・・


それでよいのか。
ここ最近、つづけて涙をみることがあった。

先日ある公の会議に出席したさい、そのメンバーのお一人から帰り際呼び止められた。

以前から親しくさせていただいている方であったが、今の職場でのどうにもならない状況についてお話されていた。(その方はその職場で重責を担っている)

また別の方は、「なんか元気ないね~」などと何気なく話しかけたら、急に感情があふれてきたのだった。ご家庭でいろいろあるようでした。

そんなことが立て続けにあった。そんな姿に接するのは、とてもつらい。
こんなことがあるたびにどうするべきか、何ができるか、いつも迷うし考えてしまう。

心を込めて、お話をお聞きしたいと思う。
しかし、それだけでよいのか、だけどそれ以上のことは傲慢にならないかとか。

元気づける、励ます、勇気づける、こういうことに対してあまり自信がない。
そして励まそうとか元気づけようというのは、私にはとても僭越なことという思い込みもある。

感情的になっているとき、そして何かの答えを導きだそうとしているとき、そういう状況によってその方が求めるものって違ったりもしますし。

それでもその方たちとの別れ際、聞いていただいてよかったです!元気でました!などといわれるとホッとする。

お役に立てたのならうれしい。
それはそれはとてもうれしい。
奥之院のこと(うまく書けず)
「こ、これは・・・すげぇ!」(言葉にできず)
高野山の奥之院に参拝したときの第一印象でした。
奥之院についてはこちら

奥之院にはものすごい数の墓石や慰霊碑などが立ち並ぶ参道を通っていくのですが、それもなかなかすごい雰囲気でした。
しかし御廟橋から先はそれまでとはまた一気に空気が変わります。

そしてさらに奥にある燈籠堂に入ったときのあのビリビリとした空気はどう表現したらいいかわかりません。
すげぇ!と息をのみました。うまく言葉にすることはできません。

いろいろなお寺や神社にもいきますが、あういう雰囲気は初めての経験で、神聖さ、清浄さ、静穏さ、平安さなどとは違う、全体がビシッとズーンと張り詰めている感じです。

私にはとても身につまされるというふうにいえばいいのか、俺はここにいてはまずいんじゃないかと思うような寄せつけない厳しい感じがありました。

(抽象的に感じるものを文章にすることは難しいですね。妻も感じたことがあるのですが、それもやはり感覚的抽象的なので、そちらも文章にするのが難しい…妻の感じたことをキーワードにすると~“道”“飛行場”“ポンプ”“発射台”“循環”・・・それだけだと全く意味不明ですね・・・)

それでも朝8時半ころについたため、御祈願やご供養の受付をされる僧侶の方たちが、受付を始める前にそろって般若心経を読経しはじめたので、私たちも一緒にお唱えさせていただきました。
これはいいタイミングでした。とても爽快な気分になれました。


その後奥之院から、金剛峯寺での阿字観を経て、そして昼食を予約していた遍照光院というお寺へ。
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お庭も素晴らしかったです

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そして通されたお部屋の襖絵もすごかった~金金きらきら~
ここでお膳とともに写真を撮ってもらったら、妻から「なんか成金の大名みたい」というお言葉いただきました。

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精進料理:豪華でものすごい量でした!

素晴らしい精進料理であったのに、鼻がつまってほとんど味わからず・・・鼻をかんではかすかにフワッと感じられる味をたどっていました。フワッと感じるだけでも、とても美味しかったです。
味を感じたくて、すごい集中して食べたので疲れましたし、鼻をかみまくってヒリヒリでしたけど・・・。

特にごま豆腐はとても楽しみにしていたのですが、味はもう全くわからず・・・トロッとした食感のみ堪能・・・
悔しかったのですが、次回の楽しみにとっておきます。

そして帰路、妻とふと気づいたのですが、高野山にいっておきながら仏像を全く見なかった・・・お参りしてないことに気づきました。というか、どこにも全くお参りする機会がなかった・・・。
これでよかったのか?と思いつつ和歌山市内へ戻りました。

ですが、全体的にはとても貴重な経験と勉強をさせていただきましたし、たくさん思い出もできた高野山でした。
懐(ふところ)
先日あるゼネコンの社長さんと話していたときのこと。
私たちも仕事をお願いしている建築部門長さんの話になった。

一級建築士でもあるこの方、社長さん曰く「なかなかの職人気質で妥協しないし強情なところもあるんですが、仕事も妥協しないできちっとやる」という方だ。

私も現場監督であるその方と打ち合わせしているときムカッとすること多数。
たしかにもう少し安くしてほしい、設計にはないけどこうしてほしいと言ってもなかなか通らない。あまり融通がきかない。ニコニコもしない。もうちょっと愛想よくしてもいいのに・・・と思う。

この方との建築会議はいつも闘いであった。私(施主として)のほうで強引に押し通す、飛び越えてこの社長さんと直接交渉して通してもらうときもあった。

たしかに仕事は本当にできる。まわりの信頼も厚い。
こちらが押し通したことでも、決まったことはきっちりとやってくれる。

そんなこんなで、「あの方の部下になる人も大変ですねぇ(実際大変そうなのだ)」などと話していると、その社長から「いやー、うちの職人や下請けの職人たちも、彼の下では(厳しいため)やりたくないって言ってますよ、だけど自分の家を建てるなら彼にお願いしたいっても言ってますよ」といって大笑いした。

お聞きしていて、「う~む、これって最高の賛辞だな~」と思いつつ、「社長の懐も深くて大きいな~」とも思った。

たしかにこの方には賛否ある(だれでもあると思う)。「あまりいい評判を聞かない」などという方もいる。その反面「あの人でお願いしたい」といってご指名されて発注されることもかなり多い。むしろそれで次から次へと受注している。

そういうことをこの社長も充分わかっているのだ。

人は誰でも長短合わせ持つもの。しかもそれも時と場合と環境によって長所が短所になったり、その逆になったりする。
私自身もこの社長のように“仕事はできるが、扱いが難しい方”でもなんでも受け入れるだけの懐の深さをもちたいな~と思います。

この方は地元でお会いしたなかで数少ない(んなこと言っていいのか・・・)尊敬する社長のお一人。
きれい事だけではすまない業界で生き抜いてきた百戦錬磨のオーラと目つきの鋭さは半端じゃない!なのに清々しく温かい方だ。

たま~にこのような方に出会えたり、話したりする機会があると自分の針路を再確認できる。
目指すべきものの一つがここにあったと。

ちょっとというかだいぶ救われました。
いろいろ刺激になって楽しかったな~
下を見ると底は見えず、上を見上げると先は遙か彼方
ちょっとセンチメンタルなタイトルをつけてしまいました…。

先日、取引先の営業さんと食事にいく機会があった。
そこでいろいろなお話を聞いたのだが、いやいやこの小さい小さい田舎町でもいろいろなことが起きている。知っている分リアリティーがすごかった。
いろいろな話を聞いてとてもへこむというか、なんだか疲れてしまった。
すごい人はほんとにすごい(いろんな意味で)。

下を見ると(抽象的な言い方ですが、まぁここもいろいろな意味で・・・)そして私も弱いためいろいろな誘惑にかられるとき、その誘惑に負けたらどこまでも落ちていきそうだなぁと思ってしまった。“明日はわが身”かもしれないですし。
安易な道ほど楽しそうに見えるものですしね。

そして上を見ても、あ~遠いな~とあまりにも遠すぎてこれ今俺そこに向かっているのかもわからね~と不安になる自分もいる。
そもそも今、上に向かっているのか、下へ向かっているのか、どこにいるのかもわからないときもありますしね。

まぁ、今いる足下だけは見えるように思うので、ちょっとずつでも自分の信じた道を進んでいこうと思います。
右往左往しつつ…悶えつつ…。

抽象的な文章ばかりですいません。

それにしても俺ってけっこうまじめなんだな~とも思ったなぁ。(←ここ笑うとこです)
和歌山のとあるクリニック
例えばコンビニでも、立地も変わらず、ほとんど同じものを扱っているお店なのに、流行るお店とそうではないお店がある。
それは同じチェーン店でも同じような現象があったりする。
私はそういうことにとても興味があります。

先日の旅行のときのこと。

私はその旅の前から体調を崩していたのだが、高野山へ行った翌日それが妻にもうつってしまった。
私の症状と全く同じ症状であった。

そこで急きょ病院へいこうということになり、ネットで調べ数件あった和歌山駅近くの病院のうち「ここがいいのでは」と思った1件のクリニックへ向かった。

建物は新しいわけでもない(むしろ古いほうだ)し、広いわけでもない(こぢんまりとしていた)が、とても雰囲気の良いクリニックであった。
私たちは初めていく(しかも旅先の)病院というのはとても不安になっていたのだが、「ここはいい!よかった~」と言い合った。

そう思ったわかりやすい要素を挙げていくと、
・掃除と整頓が行き届いている(特にトイレと玄関は重要だが素晴らしかった)
・受付(私たちが他県から来ていること、さらに一度きりの診察であることも分かった上での)の対応も素晴らしかった。
・看護師さんたちの対応もキビキビしつつも、温かかった。

そしてなによりそのクリニックの院長が素晴らしかった。
診察に呼ばれていくと、まずはとても真剣にまっすぐ私の目を見て、説明を聞いてくれた。
そしてその症状以外にも妻のほうが深刻であること、旅先であること、(すぐ移動するため)検査をする時間はないこと、このあとも旅は続くこと、それらの状況をきちんと把握してくれ、私たちの希望も考慮した最適な診察と処置をしてくれた。(この後、無事旅行を続けられたのも、この先生のおかげでした)

そういうことから発する雰囲気の良さがクリニック全体を包んでいたのだった。

私たちは朝早くにいったのだが、診察室から出ると、待合室はもう座る場所もないほどの混みよう(しかも年齢層も赤子から老若男女幅広かったのにもうなった)であった。
「う~む、これほど患者さんが集まるのも納得だな~、この先生とスタッフであれば安心できるものな~」と思った。

旅先の病院で、とてもいい勉強をさせていただいた。
商売は、儲かるとなれば誰でも参入しようとしてくるもの、そうなれば遅かれおのずと過当競争となることは自明の理だ。(このことの説明はマイケル・ポーターのファイブフォースが有名ですね。)

ところが過当競争であるのに、そしてそれほど立地も商品やサービスにも大きな差異はないのに、冒頭に書いたようなお店や会社が存在する。
その差はなんだろうか。願わくば私たちもそのような会社を目指したい。

このクリニックは自分にとって大きな示唆(というか確認できたともいえるかも)を与えてくれたように思います。
そして本当に真摯に真剣に仕事をされている方はやはり違う。また社長なり院長なり代表なりオーナーなりの思いが強い(良し悪しもあるが)組織もまた違う。


どこにどんな機会があるかわかりません。
なにもかもどんなときでも無駄なことなんてない、気づけるかどうかだ、とここでも思ったのでした。
リニュ~アル
今日からタイトルに「+α」がつきました(笑)
ドラゴンボールZの「Z」のような感じです(笑)

リニューアルにあたってよいタイトルがまったく浮かびませんでした(無計画)
タイトルはほとんど変わってませんがw自分のなかでのブログのポジションを少し変えて、もっと素直に深く、感じたこと、考えていること、起こったことを綴っていきたいと思います。
今後とも引き続きよろしくお願いします。


今日は奥さんが実家にいきましたので、読書に勤しむ至福の時間を一人満喫しております。

ところで「うちの奥さんが実家にいった」というと、うちの母と嫁のご両親含め全員が例外なく心配してくださり、ワケをたずねてくださるのはとてもおもしろいです。そしてありがたいです。

特に「こっち(実家)には来ないの?」「いつ帰ってくるの?」と散々聞いてきていた嫁の母が、「ケンカしたの?何かあった?」と一番心配してくださるのには、笑いました。
あれほど帰って来いと催促してくるものだから、帰省することになったのに・・・。

親ってそういうものなんでしょうね。ありがたいですね。
どう思われるか、どう見えるかはもういい
『「愚痴を言う」「他人を嫉む」「誰かに評価して欲しいと願う」・・・人生を無駄にしたければ、この3つをどうぞ。』
「ちきりん」という方のツイートです。

このなかの三つ目「誰かに評価して欲しいと願う」は自分のなかでハッとさせられた言葉でした。

これをこう言ったらどう思われるのか、自分がどう思われたいか、そんなことを気にする自分がいる。
このブログでも嘘はないし、思っていることをそのまま書いているつもりだが、言葉に関してはかなり選んでいたりする。もちろん人を傷つける言葉など論外ですし、愚痴も恨みも書いてはこなかったつもりです。

だけどここ最近は書きたいことにかなり制約がでるようになってしまった。
書きたいことがなかなか書けないような、もどかしいような状態にあった。自分が書きたいことをそのまま書いたらどう思われるのだろうとか、どう見られるのだろうとかを考えてしまって、なかなか書けなかったのだ。

そこでブログを引っ越してしまおうとも思ったが、自分に必要なことはそうすることよりも、どう思われるか、どう見られるかはもういい、気にしないでいいのではないか、自分はそう思うそう考えると信じていることを表明していってもいいのではないかと思うに到った。
もっともっとそういうことに慣れていき、内面を晒してもへこたれない気持ちを持つことが必要ではないかと考えてみた。強くなりたいですし。
会社でも、私たちがこれから計画していることが噂で伝わると外野でボソボソといろいろなことを言われたりして、イラッとすることもありますが、慣れると鷹揚に聞いていられるようになりましたし。

そしてもう一つ、「誰かに評価して欲しいと願う」ということと関連して付け足したいものが、「人の生き方や選択に口を挟んだり、評論・評価するのは止めよう」というものだ。これまでもこのブログでそうしてしまったことをたくさん書いてきたし、そうしてしまったことでの失敗や反省なども書いてきた。

「こうすればいい、そんなんじゃだめ、こうやるべき、こうしたほうがいいよ」
これらの言葉は一見相手のことを思っているようで、全然考えてない言葉だ。

その悩みはもうその人の主観なのだ。
私も人間関係がうまくいかなくなるほど天然パーマを気にしていた時期がありました(笑)
今考えると「なんじゃその悩み!」と思うが、そのときは深刻でした・・・というかなんてアホな例えだ・・・。

そういう主観的な悩みに、無遠慮にこちら側の主観をもってアクセスしていくのは傲慢なことだと改めて思う。求められて初めて何か伝えればいいのだろう。(といってもそこらへんの振る舞い方を実は自分もよくわかってないんですけど・・・いろいろ観察して勉強していきたい)

先日も体調がすぐれないから空手を休むという妻に「そんなんで休んでいたらいつだっていけないよ」と言ってしまった。その体調の悪さ加減も妻の気持ちも無視した言葉だった。とても悪いことを言ってしまったと思って反省している。
このようなことはやってはいけないと思う。

ヨガをやっている友人から聞いたのだが、先生のなかでもたまに「これをやればこんなふうになれるから、やってみて!」と生徒が自分でその感覚をつかむ前に“結果”を強制してしまう方がいて、残念に思うのだそうだ。

(例え意図していたとしても)そこに至る結果だけでなく、そこに至るプロセスも含めて経験なのだと思う。そしてそのプロセスもそこで感じることもその方のもので、強制されることなく、その方自身でつかんでいくものだ。
このことはとても重要なことなのではないかと思っている。
先日ブログに書いた「形から入る」などでも自分が体験してみて「なるほど~こういうことか~」と分かったことですし。

であるからこそ“人に教える”“人を指導する”という立場の方はとても大変な役割であると思う。人によって理解するスピードも違えば、どこまで教えるか、話してもいいかのバランスもとても難しい。


ただ会社のなかでは若干話は変わって、容赦なく決めるところは決めていきますけど!
やはり結果を求められるものもありますし、方針や決断はビシッと下さなければ、組織も人もまとまりませんから。
そこは独善的と言われよう構いません。戦車のような気持ちで進んでいきます。


まわりからどう見られるかを気にするばかりではなく、自分で自分の生き方を肯定していけたらいいなと思いますし、まわりの人たちのありのままの姿を肯定して、黙しつつも無関心ではなく、静かに自分なりの答えを考えつつ、温かく見守れるような人にもなりたい。

そんなことを妻を見ていて、そしていろいろな方に出会って、尊敬する方たちとお話させていただいて、そんなことを感じていました。

というわけで、ちょっとブログの方向性を変えようと思います。
ここで気持ちもブログもリニューアルして心機一転してがんばりたいと思っています。
まぁ、極端に変わることもないのですが、けっこうディープなこと、自分の内面の深いところも書いていこうと思っています。

何かの組織なり職業を代表して書いているわけでもないですし、何かの宣伝をしているわけでもないので、個人的に勝手なことを書いていますが、これからも読んでいただければ幸いです。
引き受ける
つい先日のこと、うちの社員があるお客様のことに少し関わりすぎてしまって、他社さんより叱責されたり、怒られたりするようなことがあった。(お客様から苦情ではない)
その部署のマネジャーより、そのようなことがあった旨の報告があった。

詳しく聞くと、先方が怒る理由ももっともであった。
本来であればお客様とその他社さんの関係において決めるべきところに、私たちが口を出してしまっていたのであった。

そしてうちのマネジャーの言い分もとてもよくわかった。
自分たちの組織ではできることが限られるためにとった行動であった。私たちの会社ではリスクが高い(リスクをとれない)と判断したものでもあった。(それもまた他社さんから見たら、“逃げた”“押しつけられた”と思われたのだろうと推測できる)

そのことで昨日私のほうから、各担当へその判断は間違えていないこと、だけど別な考え方や方法・やり方もありますよという話をした。

心ない言葉を言われた担当も、そしてその上司であるマネジャーもとてもつらかったろうと思うのと同時に、それはそれで真剣に仕事をしている証しなのだろうと思う。
そのことは私もしっかりと認めたいとも思う。

これはちょっとと思うことでも真剣に仕事をしているからこそ、そのような摩擦や軋轢も起こるもの。

所長でも課長でも部長でも、現場の最前線に立つもののつらさ、苦しみ、孤独は自分も経験があるからとてもよく分かる。さらに失敗をしたり、怒られたりして落ち込んでいるところに、さらに上司から「お前の責任だ」ということを言われて感じる孤立感やいたたまれなさもよく分かる。

私は、その現場が下す決断を“それでよい”と認め、私なりのアドバイスもいいつつ、その決断によって生じる結果と影響と責任をすべて私のほうで引き受けたいとあらためて思う。
少なくともこの組織においては自分がその役割を担う存在だ。

それがあるからこそ、社員たちも思いっきり行動でき決断できる。
自分がこの組織において“最期の砦”であるという自覚をしっかりともちたい。
本当の意味での強さ・揺るがなさ、不動心というものをもてるようになりたい。
呼吸のすごさ
いま、空手の稽古では、“かくたいえんれんほう”(漢字がわかりませんでした・・・)という型をやっている。
うまく説明できないが、三戦立ちや息吹きを多用する型です。
これにあるような三戦の型のような・・・でも全然違うのですが。

この型を教えてもらったとき、師範から「この型をやるとどんなに呼吸が荒く激しくなってても整いますよ」と言われた。
実際にやってみると、言われたとおり別な型をやっていて“ゼーハーゼーハー”いっている自分の呼吸がスーッと整う。

阿字観においても呼吸はとても大切であった。
鼻から大きく吸ってできるだけ長く口から吐いていく。吐いていくとき「あ~」という声を出していく。
そうすると体がどんどんゆるんでいく。そして集中してくるので感覚がどんどん鋭くなっていき、自分の身体の状態もはっきりしてくる。そのことは一昨日・昨日のブログで書いた通りだ。

例えば「集中する」には“意識・意志”によって集中することもあるが、阿字観で行う呼吸をするだけでも集中することができる。そこには意志という“力み”がないため、集中のレベルが全然違うように思える。

呼吸のやり方によって、体や気持ちに様々な変化をもたらすことを実感させてもらった。

体と心の一致、その形、そして呼吸(これに観想も加わるのだが、書くことが難しいため省略)
これらのことについては今、自分が毎日実践していることや、ちょっと考えていることにとてもよい示唆を与えてくれた(分かる人にしか分からない表現ですみません)。

そして空手と阿字観、全く別物であるこの二つのことがつながってきたのもとてもおもしろい経験であった。

そのときは分からなくても、続けることや、やったことのないことに挑戦してみたりすると新しい世界がひらけてくる。
それは今の自分にとってとても感動する瞬間だ。

まだまだ知らないことがたくさんあるっていいな~楽しみだな~と思ってます。(旅のブログ、まだちょくちょく続きます)
形(型・体)から入る
私はとても理屈っぽいほうだ。
頭で考えて納得したいタイプというか、考えてみて納得しないと行動できなかったりする。

しかし、そればかりではわからないこともとても多いということにここ一年くらいで気づかされた。
それは私にとって価値観が変わる・視野が広がるという意味で、一つの大きな転機だったと思う。

それが“形から入る”ということ。
昨日のブログで「内側から知ることも多いが、外側から知ることも多い」と書いたが、その外側から知るというほうだ。

空手ではまず“型”から覚えさせられる。
定位置鍛錬から始まり、まずはその型を身につくまで覚えさせられる。

それがどういう理屈でそんな動きになるのか、さっぱり分からないのだがまずはやってみる。
できるようになっても、なぜこの動きなのかわからないことがある。
しかし、それでも続けていると、それが実際の場においてものすごく合理的な動きだったり、全然関係ないことと突然つながってきたりすることがたくさんある。

阿字観でも同じであった。
たぶん阿字観の本当の意義や目的を理解することはたぶんあの時間では不可能だ。もしかしたら何年やっていてもわからないかもしれない。
だけどその形から入るだけで、得られること・感じられたことは昨日のブログでも書いた通りだ。

言葉では伝えられないこと、やってみて自らが気づかなければならないことがたくさんある。
それを理解するには実践してみるしかない。
形から入ることは、ある意味とても時間がかかるし、根気もいる。
なんでこうなのか、そうするのかさっぱりわからないのに、やっていくことだから。

“形がどうであれ、心さえこもっていればいい”というのもあると思う。
しかし、その作法や所作、型、形となっているものには必ず理由と意味があり、なにより“力”もある。

形から入ることで分かる・見える世界はとても大きいし、形からしか分からない世界もまた大きい。
それは例えば仏像を見ることでもそうだ。なぜその形、佇まいなのか、そこにも意味があるんだろう。

先日ヨガをやっている友人が「ヨガをやっている人たちが、「生きることが楽になった」と言っているのを聞いても、自分にはその言っている意味がわからなかった、だけど4年くらい経った今はそれがとてもよくわかる」と言っていた。
「私の人生はヨガ前とヨガ後で分けられるくらい変わったの(笑)」とも言っていた。
それもまた形から入ること、継続することで見えてきた世界なんだろうと思う。

形から入る・体で覚える、これらの大切さをこの旅でもひしひしと感じることができました。
そしてその形と、その形となる心(理由)のどちらも理解しながらいろいろなことを実践していけたらなと思います。
身体の声:阿字観体験
よく妻に「身体はかなり疲れているのに、気持ち(心・頭)がどんどん先にいこうとしていることがとても多い。もう少し自分の身体の状態を知ったほうがいい」と言われる。

その感覚はとてもよくわかる。
とてつもなく眠いし、身体がかなり疲労している自覚があるのに、パソコンに向かっていたり、本を読み続けていたりする。興味あるものについては、我を忘れてとことん調べたり、知りたくなってしまったりする。
もちろん自覚がないときも多い。仕事がつまっているときや悩んでいるとき、考え事をしているときは特に。

そんな日が続くと、ある日突然身体が全く動かなくなってしまったりする。
そういう体調を崩すときや偏頭痛になるときは決まってその限界を超えたときだ。
身体がおかしくなって始めて限界だったなと気づく。「しまった!」と思ったときには時すでに遅しだ。

先月の下旬頃からまさにそんな状態になってしまった。(というわけで旅行の前半はかなりきつかった)
本当はもっと早くそんな状態になっていると気づいて、身体を休めたりするべきなのだろう。

今回の旅行では高野山の金剛峯寺にて阿字観を体験させてもらった。
阿字観についてはこちら
「心と体を一致できるようになれたらいいですね」とご指導いただいた僧侶の方からのお話もあってやってみました。

その阿字観をしていると(逆にいうと阿字観しかやっていないため)、体がどんどんゆるんできて体そのものの熱や呼吸、鼓動、脈動、そしてしびれや体の軋み、疲労まで含めて、体の状態がとてもよく感じられた。
体はしっかりとそういうシグナルを出していたのだが、いかに気づいていないか、そしてそういう感覚があることのありがたさをまざまざと思い知らされた。

そしてもう一つ、半跏趺座(はんかふざ)という座り方をし、法界定印(ほっかいじょういん)の手の形をして、大きく描かれた月輪と「阿」(=大日如来)という梵字にむかって、教わった呼吸をしながら声もだす。そのときも言われた観想をしながら。しかしそれでも様々な雑念も浮かぶ、そして足や体も風邪によるだるさに加えてどんどんしびれて疲労してくる。
そうやっていたら「あぁ、生きているってこういうことかぁ」「こんな感じで生きていってもいいのだろう」とふと思ったのだった。(そこには自分なりのプロセスがあるのだが省略して)今この場にいる自分を肯定してもよいのだと思った。

自分が生きている実感がもてるのも、体があってこそだなと。
体があるってとても不便なことも多いですが(ちょっと変な言い方だ)、そういう体から分かること・気づかされることってとても多い。

身体があって体調を崩せるからこそ、それがある種のストッパーとなって、心や思考にブレーキをかけてくれたり。
(たぶん自分が想念だけの存在であったら、行き着く先はどこなんだろうかなんて思ったり)

妻は「感覚が研ぎ澄まされていき、見える触れる聞こえたりするっていうことだけでも素晴らしいことだし、生きてるっていうのは幸せなことなんだ」というふうに思ったと言っていた。
その感覚もとてもよくわかる。

阿字観をやってみて、身体の大切さ、ありがたさをあらためて自覚することができました。
心身を一致させる時間を毎日少しずつでもとっていけたらなと思います。

「内側(心や気持ち、頭)から知ることも多いが、外側(身体)から知ることも多い」
(このことに最近気づいたことは自分にとってとても大きい転機の一つですが)ここでも実感させてもらいました。

明日以降「形(型・体)から入る」「呼吸について」へ続く。
旅行にいってきました
仕事で和歌山へ行く用があり、そのついでにお休みも兼ねて高野山や京都をまわってきました。
前半は私が体調を崩していましたが、途中からは妻にもうつってしまい、二人ともそれほど体調もそれほど良くない状態でしたが、それはそれでいろいろなこともあり、とても充実した思い出深い旅となりました。

とにかく天気が毎日快晴だったのもよかったです。
そして特別意識したわけでもなかったのですが、紅葉の時期と重なり見事に色づいた木々も見ることができました。
DSC_1026.jpg
高野山:奥の院にて

ですがその分とても混んでましたね。高野山は大渋滞でしたし、京都は観光客と修学旅行の学生さんたちで有名どころはものすごかったです。

明日からそんな旅のなかで感じたことをちょこちょこ書いていこうと思います。
旅行記ではないですが、そこで感じたこと・気づいたことを書き留めていきたいです。

いい充電になりました。今日職場にいっては仕事できる喜びをひしひしと感じました。
そしてものすごく太りました。明日から運動もがんばります。
無償の・・・
今、体調を崩してます。
のどからはじまり、体がだるいだるい。

そんな体調が悪いとき、妻がいてくれるのはとてもありがたい。
別に妻が治せるわけでもなければ、代わってくれるわけでもない。

だけど、一人ではないということがこれほど心強いと感じたことはなかった。
そして体調悪いときは特にやさしいし、。
まさに無償の愛という言葉があてはまる。

ところが少し元気になると、「昨日はありがたかったでしょ~あれこそまさに無償の愛だわ~今度からもっとやさしくしよ~と思ったでしょう?」
となって、一気に有償の愛へと変わる。

でもありがたさが身に沁みてます。

ちょっと出かけてきますので、しばらく更新できません。
体の調子が戻るといいな~。




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