日々のこと
感じたり、考えたりしていることを綴ります。
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人が人に期待してしまうこと
自分がこうなっているとき、こうしてほしかった。
あういうことをされたことがショックだった。

みんな自分が求めていることを他人にも求めたりする。
それが自分の親であったり、兄弟であったり身内であればさらに強くなる。
人によっては恋人などのパートナーにもそんなことを求めたり。

先日ある母親が、猛烈に落ち込んでいる子に対して励まそうとしてとった行動について、後日子から「あういうふうに言われたのはショックだった」「自分としてはこういうふうにしてほしかった」などと言われたという話を聞く機会があった。

その子の母は(ショックであったし)つらいだろうなと思う。実際に「自分は落ち込んだときはそう考えてきたけど、冷たいのだろうか」と考え込んでいた。
そう言いたくなる子の気持ちもわかる。
自分の期待した励ましの言葉ではない、それでは励ましにならないと母にぶつけたくなる気持ち。そんな甘える気持ちもよくわかる。
母子はある意味そうすることが許される関係でもあると思う(ある年齢までは)。

だが、その母はこれまでそのやり方で自分を奮い立たせて生きてきたのだ。
母にとっての励ましの言葉はそれだったのだ。

かくいう私もそうだ。
私も(上述した子と)同じことを言うときもある。自分が言ってもらいたいこと、してもらいたいことをまわりに求めたりして。
そして人(特に身内や親しい友人)が何かに相対しているのを見ていると、「そのやり方はまずい、こうしたほうがよい、これならうまくいく」など目についたところを指摘したりして、焦れったい思いにかられたりする。

でもそうすること自体、とても勝手で傲慢なことなのだ。
それを愛情だと思ってやっている分タチも悪い。
本人以外の人の意見は、身内であれ親友であれ真実であれ、多くある意見の一つでしかない。場合によっては単なる余計なお世話でしかない。
その人の人生はその方のもの、そういう行為はその人生をも否定しようとすることにつながる。

そうしてきた自分に忸怩たる思いがある。たくさん人を傷つけ、嫌忌をかって気づいたのだ。気づいてなおやってしまっているときもある。
(ただ反省をして学ぶことはあっても後悔はない。もう過去は変わらないもの。)

それをやると決めたのは本人であって、本人のやり方でやるべきであり、その結果も本人が受け入れなければならない。

本人が望んだときに初めて自分の意見を伝えてもいいのだろうし、それをどう解釈するかも、それを受けてどう行動するかも、本人が決めることだ。
だから自分が言ったことに「そんな意見なんて意味がない」と言われても「そうか」と言ってそれを受け入れなければならない。

自分のまわりにいる人たち(大切な方であればあるほど)がやっていることを黙って見届けるというのはとても難しい。うまくいってほしい、成功してほしいと願う分、何かしら言いたくなってしまう。
逆にそれをやっている本人から、本人が期待している人物像になってもらいたいと、こちらが望まれるときもある。


ここ最近、自分がそんなときどう振る舞えればいいか、そんなことと対峙している方にどう接すればよいか考えている。

愛情をもって、その人の願いを聞いて、叶うことを祈り、関心を常にもっているが、ただただ黙して見守る。
期待するけど、表にも出さないし、期待通りにならなくても裏切られたとも思わない。
求められなければ干渉もしない。求められれば、意見を述べたり手助けできることは精一杯粛々とする。
うまくいっても自分のおかげとも言わず思わず、見返りも求めず、ただ喜びを共にする
うまくいかなくても、評せず、責めず、反省を促すこともせず、ただただ認めて寄り添う。

これって・・・もう仏様みたいですけど・・・。
こんなふうになれたらいいのかと思ったり。

ほほえみながら黙して見守り続ける。これは本当に強い人じゃないとできない。
もちろんそんなふうになっていない私は、そんなことがあるたびに心のなかが大嵐。
あ!でも最近は小嵐くらいかな(笑)

せめて“雨のち晴れ”くらいにはなりたい。
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判断・決断について
会社において、私の仕事は「判断すること・決断すること」といってもいい。
私が決断しなければどこに向かっているのか、どっちに進んでいくのか、その指針がないということになる。
何かの組織を経営されている方であれば、当然のことだ。

決断をするということは、それ以外を切り捨てるということだ。
だから、仮にAとBのうち、Aを選択したとして、もう一切Bのことを考えることはない。採用でも事業展開でも何でもそうだ。
Aを選択したことで、起こる影響も引き受けるし、Bを選ぶことであるかもしれない未来のことも一切考える必要はないと思っている。
だから、一度した決断を後悔する、信じられなくなるということはない。

しかし、先日体調を崩したときに、自分のなかでそう思っていたことが突然揺らいでしまった。
なぜかは分からない。
とにかく疲れ果てていたこと、そして偏頭痛になってしまい悶えていたこともあるのかもしれない。

「今、お前のまわりを取り巻く“望まない現実”(偏頭痛含)は、そのときのお前の決断のせいだ」というような声なき声とともに不安・恐れの感情がどっと溢れでてきてしまった。

あまり声高には言えないが、ときどき自分の決断によっていろいろな人の人生に影響を与えてしまうことに、とても怖くなるときがある。
そんなことを恐れていたら、何もできなくなることもわかる。
社員たちは社員たちの人生なんだから、そこまで考える必要はないということもわかる。

そんなことを理屈では理解しているのに、突如そんな恐れ・不安感に苛まれる。
もちろんそうなることで、一度下した決断が変わったりすることはないけれど・・・。

揺らぐのは、自分の心の弱さなのかもしれない。

そしてその“弱さ”にうち克つためには、
修羅場も含めた経験という場数をふまなければならない(そのためにも時間も必要なんでしょう)。
自分を信じるための揺るがない信念とか志、哲学が必要なのかもしれない。
さらに屍を踏みしめて越えていくような覚悟も必要かもしれない。

もっともっと自分と向き合っていこう、起こることから逃げずに立ち向っていこうとあらためて思っています。

強くなりて~。
自分の本当の気持ち
ここ最近、自分が今とっている行動がどんな目的なのか、なぜやっているのか、常に意識したり、確認しないとなと気づかされることがあった。

先月、私が尊敬する方たち(空手も勧めてくださった方)から、体を引き締める方法を教えていただいた。
自分は三戦(サンチン)立ちにて、お腹や背中の気になるところを、誰かにひらすら(100本くらい)突いてもらうのだ。
たったそれだけで脂肪が散り、サイズが変わる。
私が行っている空手はフルコンタクトの稽古はほとんどないため、普段は嫁にやってもらっている。
本当にサイズが変わる。

そんなことをやっているうちに、自分がどういう体型でいたいのか、自分をどういうふうに見せたいのか、どれくらいのサイズのものが着られればいいのか、ということを考えるようになって、それがわかった。
ただ漠然と“痩せたい”と思っていたことが、もっと具体的に考えてみたのだ。

そしたら、自分は痩せよう痩せようとばかり思っていたのが、着たい服が着られて健康でいられるなら、別に痩せてなくてもいいとわかった。
ダイエットをして体重を減少させなくても、体を引き締めたり、脂肪をちらすなどの方法によって、そのサイズの服が着られればそれでいいんだよな~というふうに。

そんな自分の気持ちに気づいたら、「あ!俺別に痩せようと思わなくてもいいんだ」ということにも気づいたのだ。
以前であれば、明らかに健康を害するレベルの肥満であったため、痩せる必要はあったのだが、今はもう“痩せる(=体重を減少させる)”ということにそこまでこだわる必要はなかったのだ。

それが分かったときは、なんだか視界が明るくなったような、ホッと肩の荷が落ちたような感覚になった。
そして新しい世界が広がるような、自分の本当の気持ちがわかったような嬉しさがあった。

自分がこうやらねば、こうあらねばと思っていることでも、なんのためにそうしているのか、そうする以外の方法はないのか、そういうところをときどき確認しながらやっていきたい。

「こうする、こうせねば」なんてガチガチになる時期も必要かもしれないが、いつまでもそうするのではなく、時がたてば状況も変わるもの、(自分の幸せを念頭において)もう少しやわらか~く考えられるようになりたいなと思う。

まぁ、なかなか難しいんですけど・・・。
事業“欲”とどう向き合うか
先々週の記事になるが、ソフトバンクがアメリカの通信会社「スプリント・ネクステル」の買収を発表した。イーモバイルの買収に続いてのことだ。

この発表に対していろいろな反応があると思いますが、私がこのニュースを見ていてふと考えたことは、「事業欲とどう向き合うか」だった。

SBIの北尾吉孝さんのブログ「ソフトバンク巨額買収について」を読んでも本当にそうだよなと思う。

孫さんには孫さんなりの戦略や志があるのだと思います。
あれだけの企業になってもさらなる高みを目指そうとする姿勢は素晴らしいものだと言えますし、際限なくふくらみ続ける事業欲はいったいどこが終着点なんだと疑問に思うこともできます。

しかし、こうした賛否があるなかで、彼が社長である限り(というより彼自身の人生のことであるため)、誰もその思いや行動を止めることはできませんし、それがうまくいくか、いかないかの未来もまだわかりません。(ヤフーBBのときも、ボーダフォンの日本法人買収のときも一部では“暴挙”といわれていました。)

私自身も新しいことにチャレンジしたいと思う反面、チャレンジすることで出てくるリスクや影響など、常にジレンマを抱えていたりします。
絶対にやりたい!私たちがやるべきだ!と思うのと同じくらい本当にやるべきことか・・・、失敗したらいろいろな方に迷惑がかかる・・・などということが頭のなかでグルグルまわる。

それが論理的な思考であるうちはいいのですが、やはり不安・恐れなどの感情と結びついてきたりすると厄介になる。

「悩むな、考えろ」とは尊敬する方の言葉だが、とにかく論理的に、私たちがとれる適正なリスクとは何か、自分たちがコントロールできることとできないことをできるだけ把握しようとしたり、ニーズの有無とボリュームとこの後の推移がどの程度あるか、私たちが選ばれるための戦略とは、人材の手当は可能かなどについて、冷静にとにかく冷静に考え続けたいと思っています。
ファーストリテイリング・柳井さんの「一勝九敗」という言葉も冷静で適正なリスク管理があればこそだ。

しかし、あくまでも予測である分、やってみないとわからないことが絶対にある。
さらに時間と資本と人に制約がある分、決断を下すという瞬間が必ずやってくる。
または、突如“機”としてふってくるときもある。

そのときにどう決断するのか、とても難しい。

会社を大きくしたい安定させたいとはすべての経営者の方が思っていることだと思いますが、そういう事業欲とどう向き合うかは私にとっての大きなテーマです。

というより“欲”そのものとどう向き合うかがそのバランスをどうとるべきかがまだまだ確立できてない。
欲があるから成長することもできますが、欲によって身を滅ぼすこともやっぱりある。


今ある私なりの決断を下す基準は、冷静になること、決めたら絶対にやり抜こうという情熱をもって取り組めるものであること、「動機善なりや、私心なかりしか」という稲盛和夫さんの言葉、それくらいかな~なんて考えたりしてます。
備忘録:見送る
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恵まれている環境
自分の人生をすべて思い通りにできたらいいなと思いますが、そんなことってなかなかない。
そしてそんなときにどうしているかがとても大切だと思っている。

頻回に転勤している友人がいる。
日本を縦断するほど転勤を繰り返している友人。

会社の組織上転勤があることをある程度覚悟しているとはいえ、そしてその行く先々できっちり結果を出しているとはいえ、思いがけない複数回の転勤を受け入れるというのはけっこう大変なことだろうなと想像してしまう。
やはり自分の人生が、会社というものに翻弄されていくように感じるのではないかと思ったり。

しかし、その友人はそんな身に降りかかってくる現実に、戸惑いつつも全然腐らず、しっかり受け入れて、その場その場できっちりと仕事をし、結果を出し続けている。

今ある状況に不平不満をいうこと。
望まない現実を誰かのせいにすること。

私はそんなことはしたくないと思う。
でも私はそんなことを言いたくなる未熟さと、気持ちをかき乱される弱さを持っている。

だからこそ、私はその友人のそんな姿勢をとても尊敬している。
そしていつも励まされている。

何か言われるわけでも、私から言うわけでもないが、それらと向き合う姿勢を見ているだけで励まされている。

私のまわりには、その友人以外にも、そんなふうに尊敬できる方、見ているだけで励まされ襟を正さねばと思う方がけっこういる。
それってとても恵まれている環境だな~ありがたいな~って思っています。
思い続ける力
「自分で「こうしたい」「こうなりたい」と思ったら、何があっても、そうなりたいと思い続けることが大事」
いつも読ませていただいているブログにあった言葉です。


昨日、新しい事業所が無事稼働し始めた。
一昨年から進めていたことが一つの区切りを迎えることができた。

「必ずできる」と思い続けて、本当にできたのだ。
2月に完成した事業所のときも、建物ができてオープンできることになったら改めて「うわー!ほんとにできた!単なる原っぱだったのに建物が建って人も集ってる!すごいな~!」なんて第三者的な感じでけっこう本気で驚いてしまった。(バカですいません)

今回も、まだまだ工事は続いていくが、とりあえず一つの形になって(ちょっとだけ驚くとともにw)とてもうれしい。
もちろん私一人の力ではない。良いものを建てたいとがんばってくれた社員をはじめ、本当にたくさんの方たちが関わってくれ、応援していただいた。そして思いがけないご縁や幸運にも恵まれた。

しかし、これもまたプロセスのなかの輝かしくはあるが瞬きのような出来事。
そしてその目的も稼働することではない、喜ばれることだ。
(ただ担当社員たちの疲労の色が濃い。直近はとにかく休んでほしいと切に願う。気力体力ともに充実させてから、新しい職場で仕事をしてほしいと思う。)

あらためて、ちゃんとスタートすることができてほんとうによかった。

それにしても思い続ける力って本当にすごい。
思考は現実化している。ちゃんと実現している。

次の展開にむけた構想もある。
実現できるかどうか、未来はわからない。

ただ頭のなかには、建物も、そこで働いている人たちも、その話し声やにぎわい、匂いに手触りなど、すで完成されたものがある。

先日もいろいろと揶揄されることもありましたし、そして今はまだ動かず、機を待っている状態ですが、この次も必ず実現できるって確信してます。

というより実現してます!頭のなかでは(笑)
今日は22日・・・!
今日一人の社員が挨拶に来てくれた。
病気をされ治療と療養が必要とのことで一ヶ月ほど休まれていた方だった。
治療も順調に進み、予定通り来週復帰するという挨拶であった。

まずはとてもよかったと思ったのだが、感覚的に復帰はまだまだ先のことだと思っていたので、少し驚いてしまった。
特に順調すぎて早期復帰するわけでもなく、ちゃんと一ヶ月ほど経っていたのだった。

たしかに今日は10月22日で10月も下旬にさしかかっている。

しかし自分の感覚では10月も後半にささかかっているという感覚がない。
ここ数週間あまり時間や曜日の感覚のない日々であった。
今月はプライベートでも仕事でも一つ一つ集中してこなさなければならないことが続いていたため、そんな感覚になってしまったと思う。

やるべきことがつまっているということは、ある意味充実したありがたい日々だ。
しかし反面、身体や気力はあきらかに疲労が蓄積し、枯渇しているのがわかる。

10月はこうなるだろうとは覚悟はしていたが、ちょっとリフレッシュが必要だな~と改めて思う今日この頃。
11月のスケジュールを確認するとけっこう落ちつく予定だ。
どこかいこうと計画中です。
今日もまた無事終わることができました
今日は改築していた新事業所の引っ越しでした。

朝8時半から数十人の方に集まっていただいて荷物を運び込みました。
お手伝いいただいた方たちも予定より多く集まっていただいて、ありがたかったです。

そして荷物の搬入後に本格的に始まった担当社員たちによる後片付けと開設準備。

建物が新しくなるということは、何をどこにどう仕舞うか、どういうふうに活用するか、こんなふうに使うはずが無理だった、などという段階からスタートする。
ここにこれを仕舞う、これはこんなふうな使い方にする、ということが分かっていてそうするのとは格段に大変だ。
当日混乱しないためにも、事前の準備が大切だが、担当社員たちはそれぞれが担当する場所の配置や仕様などは事前にしっかりとやっていたようで、作業がとてもスムーズであった。

ガランとした建物が一気に大混雑となって、それがまた段々と整理されてその目的に合わせた建物や部屋へと変わっていく過程を見ていてホッと一安心できた。
そしてここ数週間開設にむけた準備でなかなか休めず疲れ果てているだろうと思う社員たちが、それぞれの持ち場をしっかりと仕上げているのを見ていて感動もした。
ほんとに素晴らしい社員たちだ。

一つ一つ段階を踏んで、今日もまた無事終わることができました。
そこがまず何よりです。

そして久しぶりに腕の感覚がなくなるほど重たいものをたくさん持った。
明日どの程度筋肉痛になるか、ドキドキしてます。
多角的な視野をもつ
人は誰でも、今立っている場所から見える景色のことについては雄弁だ。

しかし、逆にその場所に立っている自分のことについてはなかなか言えない。
見えないから言いづらいのは当然といえば当然。
さらに立つ場所によって見える景色も一気に変わってくるのだが、それも見えない分言いづらい。

かくいう自分もまったくそうだ。

しかし、どちらも想像することはできる。
はっきりとは分からないまでも、俯瞰して見たら、あそこから見たら、こんなふうに見えるんじゃないかというふうに。

会社であれば、今担っている役割から見えることはもちろん言える。
しかし、その見える景色が、マネジャーからはどう見えるか、その見え方が組織にどう影響するかとかまで考えられる人はなかなかいない。

自分が見える景色以外のことも考えよう(想像しよう)とする方と、
今いるところから見えることしか言わない方、会社がどちらを重視し評価するかは議論の余地はない。

私が社員たちを見ていると、そういう視点や想像力を持っている方は必ず成長するし、まわりの信頼も厚い。いろいろな立場・役割の人たちの気持ちを察することができるから。察することができる分、とても心労も大きいこともありますが。

大小にかかわらず組織をまとめるためには、リーダーシップを持つことが不可欠だ。
しかし、リーダーシップをもつということは、自分の考えたとおりバシバシ何でも決めていくということではない。
いろいろな人の立場、主張、思い、そんなことをしっかり聞いた上で、最終的に責任をとって決断するということだ。
結果として同じ決断をするとしても、このプロセスの差はとてつもなく大きい。

先日、社内の問題をある社員と話していて、多角的な視野、想像力をもっていることがわかって、とても安心する出来事があった。

残念ながらこんなふうに考えられる人ってほんとうに少ない。
ほとんどの方は、自分の立場から見た今ある問題についてストレートに言うだけの方がほとんどだ。

自分も、いろいろな立場、視点から物事を考えられる(想像できる)人になりたいなと思う。
そしてそういう想像力をもった社員を育てていきたいなとも思う。
“知っている”だけでは・・・
会社では様々な情報が入ってくる。
トラブルや業務のことはもちろん、職場内の人間関係や他企業の動向、変な噂まで。

それらはあくまでも情報だ。お知らせだ。
そのなかには「そうなんですね」で済むものもたくさんあるし、何かの対処が必要なものもある。

そのため“単に知っている”ということには価値はないと思っている。

それらの情報に対してどう解釈するか、どう影響するのか、どう行動するか・対処するかなどは、私たちのほうで決断しなければならないし、そうすることこそ重要なことだ。

社員たちから「それは知ってました」とか、「前からそうでした」ということを聞くが、それでは何も意味がないと強く話す。

昨日も、ある情報を聞き、深夜に夜勤の社員のところへいって事情を聞くなどした。
なんらかの対処をしてみると、杞憂に終わることもたくさんあるが、それだけでそこに漂ういや~な空気が変わることもある。認識を共有したり、私の考えを伝えたりするだけでも変わったりする。

嵐にならずに済むこともあるし、確実に嵐になることを予測できるときもあるし、嵐が過ぎ去るのをひたすら待つことも必要なときもあるが、それらはすべて人事を尽くしてからの話だ。

「情報を冷静に考え、しっかり行動に移す!」
いつも心がけていたい。
心に沁みるひととき
ここのところおかげさまでかなり忙しい。
なかなか休みをとれずにいる。

体もきつく、疲れもなかなかとれなくなっている。

今日職場内を移動していると、あるお客様から“来い来い”と手招きされた。

そばに寄ると、まわりに誰もいないことを確認され、自分のポケットから何かを取ろうとゴソゴソされていた。

“もしかして何かくださるのかな”と思っていたら、案の定私の手をにぎられ、硬い感触のものが伝わってきた。
「何も気をつかわないでください」と固辞しようとすると、「いいから、いいから、まず持っていけ!」とキッとなって渡された。

手を見ると、栗が3つ。
DSC_0962.jpg
そして「庭でとれた。誰にもいうな、あとで食べてけろ」とボソッといわれ、立ち去っていった。

その栗を見て思わず笑ってしまった。
その思いがけない厚意がありがたすぎていただくことにした。
そしてちょっと(というか、かなり)元気になった。

いろいろなところで励まされる機会は常にある。
快晴の空やきれいな夕焼け、煌々とした月だってそうだ。
それに気づけるか、そう解釈できるかは自分次第。

なかなか余裕もない日々だからこそ、そんな身の回りに起こる出来事の素晴らしさに気づける自分でいたいとあらためて思う。

重たい体に沁みるひとときでした。

肯定してくれる幸せ
いろいろなことについて、これでいいのか、あれでよかったのかと考えることがあります。

過ぎてしまったことは、今となってはどうすることもできません。できないと分かっていても、やっぱり考えてしまうことがあります。
これから対処したり、今直面している問題についても、「こうしよう」と思ってからも、心のなかでは迷うこともやっぱりあります。


まわりのいろいろな方から、「あなたはこうすべき」「わがままだ」「もっと人の意見を聞くべき」と言われたりします。

私も人として未熟ゆえ、心配もしてくれているのでしょうが、それだけじゃないように思うのは考えすぎでしょうか。
自分にとってのベストな答えが他人にとってもベストであると思うことは傲慢じゃないかと思います(自分にも言っています)。
そこに付随して、会社では私の役割、立場、その責任においてバシバシ決断していきますが、その人の生き方や信条にまで立ち入ることはしませんし、してはいけないと思っています。


たぶんこれからも失敗して迷惑をかけてしまうこともあるだろうし、悔やむことはたくさんあるだろうと思います。
(「だからそう言ってやったのに」「自業自得」という声も聞こえます)
そしてまわりを傷つけたり、恨まれたり、腹立たせることもたくさんあるだろうと思います。

ですが、やっぱり自分で考えて決断して責任とって行動していきたいと思っています。
もちろんそういうご意見やアドバイスはできる限りしっかりお聞きした上で。

なかなかまわりの皆さんの期待に沿える人間にはなれませんが、妻をはじめ家族やとても尊敬する方たちはそれでよいと言ってくれているように思うので、私は自分が信じる道を進んでいきたいです。

本当に身近なところにはそうやって肯定してくれる人がいるので、「それでいい、私は幸せ者」だと思っています。
竣工式と新たなご縁
本日は新事業所の竣工式でした。
ここまでくるのに、多くの方のご支援やご協力をいただきました。
本当に感謝したいです。

今回の竣工神事にあたって、地元の宮司さんではなく他県の一宮の宮司さんにお願いしたのだが、この方がとても素晴らしい神事を行ってくれた。

神事を司る神官さんの仕事はほんの数十分で終わる。
しかし、その数十分の所作や姿勢、準備等に日頃積み上げているものがすべて出てくる。

大変僭越なもの言いだが、宮司という仕事を日頃から真剣に真摯にお勤めになっていることがしっかり伝わってきた。
私自身の感覚だが、修祓後あきらかに空気が変わったのがわかった。

神事後、ご列席いただいた方々からも「素晴らしかった」「こんな心がこもった祝詞は初めて聞いた」という言葉を私にもかけていただいた。
そして神事後の祝宴にて宮司さんといろいろとお話をさせていただいたが、人柄もとても気さくであたたかい方であった。

今日もまた無事一区切りつくことができました。
そしてさらにここで新たなご縁を結ぶことができたのもうれしい。

何度も繰り返すが、一歩ずつ着実に進んでいこう。

それにしても昨日の内覧会も朝方まで雨が降って、その後快晴。
今日の竣工式も朝方まで雨が降って、その後快晴。
なんというか、おめでたい天気でした。
ふと思い出した言葉
よしもとばななの小説(エッセイかも)に「基本的に家や部屋は人に住まれたがっている」という言葉がでてくる。
そして「用の美」という言葉ともつながってくるのかもしれない。


今日は改築をしていた新しい事業所の内覧会でした。

そしてそこでたくさんのお客様がいらしてくれたのですが、その新事業所がとてもにぎやかに活気溢れる場所となっていた。
その光景を見ていて、冒頭の言葉を思い出した。

ある意図を目的として建てられた建物が、その意図通りに使われることでその建物が完成するんだなというふうに思う。
その意図通りに使われて初めてその建物が、建物としての命を吹き込まれるような。

そうやって考えると、建てること、建物が完成したことはある意味道具を得たようなものだ。お客様に喜んでいただくための重要な道具。だから建物はあくまでも手段であって、その建物でいかにお客様が喜んでいただけるものを築き上げていくか(提供できるか)が最も大切なことだとも思う。

そういう意味で私たちはようやくスタートラインに立てただけなんだな。

今日は内覧会、明日は竣工式。
そして今度の土日は新事業所への引っ越しもある。
やるべきことはたくさんあるが、一歩ずつ着実に進んでいきたい。

社員たちも休みなしでがんばってくれている。
ほんとに素晴らしい社員たちだ。
備忘録:スピーチの力
今日は地元の市制施行○○周年記念式典だそうで、出席してきました。
これは自分がいく必要があるのか、行く意味あるのかとも思いましたが、招待状をいただいたので何か勉強してこようということで参加してきました。

式典ではたくさんの方(ほぼ政治家)が祝辞を述べられるが、そのスピーチを聞いていてとても参考になったので、そのことをまとめておきたい。

・“原稿なし”というだけで好印象(お二人の国会議員だけが原稿なしでスピーチされていた)
・その言葉に納得性説得性をもたせるのに具体的な固有名詞はかなり有効(抽象的な言い方では内容は残らない)
・必ずしも情熱的な話し方をする必要はないが、熱意はしっかりアピール
・(上に書いたこととも関係するが)まわりが自分をどう見ているのかをちゃんとリサーチして、ある種それらの期待と一致した人物像で話す
・スピーチの“構造”では奇をてらわないほうがよい
・何を言っているかではなく、どういうふうに話しているか

他にも聴衆がそのスピーチ自体に惹きこまれる瞬間を見ることができてよかった。そんなスピーチはお一人だけだったが。

一つのスピーチで、社員や聴衆の雰囲気を一変させることもある。
役割上、社員の前でお話することが多いため、このような機会はとても参考になった。

全然関係ないが、国政の選挙が近いのだな。
ここ最近まわりでいろいろな動きがあって「?」と思っていたが、なんだか腑に落ちた。
ここ最近考えていること
年を重ねると、いろいろな経験や知識がある分、それぞれの生き方や考え方を持つことが当たり前となってくる。
私もそうだが、まわりでもそうだ。

やはりこの年代であればこうあるべき、そうするべき、というようなことを言っている人も多いし、「まわりはそうなっているのに、自分はそうなっていない」といって悩んでいる人も多い。

よほど柔軟な方でないと、そういう考え方をすぐに変えたり、人の意見を認めることはできなくなる(ある意味当然といえば当然だ)。
結果、自分の考え方やものの見方に固執していくようになったりする。

さらにそんな考えをまわりの人に押しつけようとしたり、認めさせようとするとややこしくなる。

先日、相容れない互いの考えを主張しあう場面に遭遇した。
しかも身内同士で“甘え”もあるため、余計遠慮なく罵りあっていた。

あららら・・・と驚くとともに、少し哀れなようでもあった。
なぜ自分の考えを通すために、相手を攻撃したり罵る必要があるのだろうかと。

そしてなんだかこれまでの自分の姿を見ているようでもあった。
その場面は自分を省みる機会でもあった。(私も人に干渉しすぎるところがある)

このことも一つのきっかけではあるが、いろいろと自分でも思うこともあり、これまでのあり方や、人への接し方・付き合い方も含めて、自分の有り様を一度考え直したいと思うようになった。

自分の考えをもつことはとてもいいことだが、それを人に強制することはしてはいけないだろう。
逆に人の考えに対しても、しっかり聞くこと、認めること、その上でその考えを受け入れるかどうかは自分が決めればよいのだろう。

ここ最近そんなことをずっと考えている(だからといってそれができているわけではないけど)。


うーむ、なんだか自分で書いててわかりづらい文章になってしまった・・・。
お風呂へいくと
先週の日曜日、大きな温泉宿に泊まっていた。

そこのお風呂へいくと、小学生たちが出たり入ったりだったが20人くらいいた。
(あとで聞くと、近所の小学校の野球部が球納めだったとのこと)

水風呂の水をかけ合い、洗い場のシャワーもかけ合い、サウナも出たり入ったり。
(なぜかお風呂で泳いでいる子はいなかったな。熱いからか、俺が泳いでたからか)

まさに傍若無人の振る舞いで、浴場はカオスであった。
(浴場に入った瞬間、目に飛び込んできたのは、四つん這いになって水をぶっかけられている子が、「全然冷たくね~」と絶叫している姿だった)
「あれ?ここは休み時間の校庭か」と思ったほど。

かなり危なっかしいところ、迷惑なこともあるが、あういう元気いっぱいにはしゃいでいる姿を見ていると、こっちまでワクワクしてくる。

やっぱり子供はこれくらい元気じゃないとな~、みんな楽しそうだな~とほのぼのさせられ、とても楽しい時間であった。

ただし・・・風呂からあがると、脱衣場にいた子供数人から小声で「すっげ~たるんでるぅ」と私の腹のことを言われた以外は・・・。
ご縁
ほんとにご縁とは不思議なものだと改めて感じています。

私自身、これまでそういうご縁にたくさん助けられたり、学ばせてもらったり、支えられてきたように思う。

今、一つの節目を迎え、まさにそんなことを一つずつ噛み締めています。


うまく言えないな~。
気持ちをうまく表現する言葉が思い浮かばないな~。

ただただいろいろなご縁に感謝です。
「よし、次!」
特にそうしようと思っていたわけではないのに、10月にいろいろな予定が一気に重なってしまいました。

仕事やプライベートで平日も土日もすべて予定が詰まっています。ありがたいことです。
こういうときは、気持ちの切り替えがとても大切だと自分に言い聞かせています。

この土日もとても大切な予定が入っていました。
何ヶ月も前から準備していた“予定”でしたが、とても心に残る記念となるものになりました。

そしてそれが終わって今日までその余韻に浸っていましたが、次の大切な予定(新しい事業所が竣工します)がまた今週末、そして来週月曜にもあります。
こちらはここまでくるのに、約3年かかりました。そしてこれはゴールではなく、ようやくスタートラインに立てるだけのこと。
しっかりとその事業所のスタッフにバトンを渡すまで、気を引き締めていきたいと思います。

「1やって、2やって、3やるのではなく、1と2と3同時にやれ!」はマクドナルドの原田さんの言葉ですが、仕事ってほんとにそういうものだと思います。
仕事をしていても、予想外のトラブルも含めすべてが同時進行で、なかなか一つのことだけをやって終わって、次の仕事に移るなんてということもない。

だからこそその瞬間ごとに気持ちも頭も切り替えていきたいと思います(そこらへんはまだまだ修行不足ですが)。

今は「よし、次!」という心境です。
マネジメントは欠かせない
例えば医者という資格をもっていても、治療や処置の指示を的確に看護師などにしっかりと伝えなければ、そして施行してもらわなければ、仕事にならない。

それはどんな専門職であっても同様だ。
立場によって、その専門職以外の部分でスタッフやその組織をしっかりとまとめていくことが必要になるし、またある組織の一員として協力しながら進めていかなければならなかったりする。

すなわちマネジメントの力が必要だ。すべて一人で完結できる仕事というものはほぼない。
いくら稀少で難関な資格や能力をもっていても、自分やまわりをマネジメントできなければその力を十分に発揮することはできない。というよりその専門性を活かすためにもマネジメント力が不可欠なものだ。

現在ある事業所を建設中だが、今回お願いした設計士のマネジメント力がかなり厳しい。

施工する際には細かいところでの不具合や、使用材料の変更、仕様の変更等様々な問題が起こるため、施主や元請け会社をはじめとするその他電気、設備など専門下請け業者などとの意見の調整や現場をまとめていかなければならないが、それらをしっかりマネジメントしていく力が足りなかった。

再来週竣工引き渡しをする予定の今となって、なぜそんなことが!と思うようなトラブルが起こり、今日はその処理に追われてしまった。

いくら素晴らしいデザインと機能を兼ね備えた建物を設計したとしても、それを建てるプロセスをしっかりとマネジメントできなければ全うな仕事をしたことにはならない。

今さら後悔してもしょうがないが、そのような点を見極められなかったことは残念であった。

「組織に成果をあげさせるための機関」とドラッカーはマネジメントを定義したが、そのマネジメントの力・影響はとても大きいものだと今回の一連のプロセスを見ててもつくづく感じます。

今回学んだことを次に活かしたい。
教えることの大変さ
昨日、ある部署に先月入社した新入社員のことを、まわりの社員に聞いてみた。
すると「1ヶ月経ったのですが、まだ覚えてないことがとても多いです。私は聞いたことをメモするべきだと思うのですが、メモとってなくて・・・それはどうかと・・・お、思います」と(とても遠慮気味に)話す方がいた。

私はそれを聞いて、思わず笑ってしまった(心のなかで)。
その社員も今年で2年目だったのだが、新人のときにはあまり仕事を覚えるのが早いほうではなく(メモは大量にとっていた)、半年くらい経ったあたりでようやく「なんとかまかせられるようになってきました」とマネジャーやまわりの社員から認められるようになってきたのだった。

その後、その部署のマネジャーとそのことで話したのだが、「やっぱり人のことはいろいろ目につくんだね。そしてだいたい自分のときのことは棚にあげる。(笑)たぶん自分(私)たちもそうだろうけど」と話し合った。

教えるとか育てるっていうのは、ほんと難しいと思います。
自分が理解したとおりに他人も理解するといったら、全然そんなことはない。
すぐできる方、なかなか覚えられない方、もう人それぞれ。
どうやったら覚えられるか、教えられるほうも精一杯だが、教えるほうはもっと大変だ。

こんな簡単なことなのに、なぜわからないの?なぜ理解してくれないの?なんてことばかり。
もうすでにできる人から見たら、できない人の気持ちがなかなか理解できなかったりする(そして自分もそうだったことは棚にあげるw)。

その本人がしっかり理解するまでは全然変わらない。
メモをとっているから早くできるようになるわけではないことは、その方も証明している(笑)

自覚が芽生えるまで何度でも同じことを繰り返さなければならない、たまに叱ったり、諭したり、励ましもしつつ。(そうやっていてもある日さらっと「辞めます」なんて言われるときもあったり)それはとてつもない忍耐が必要だ。

でもそんなことを繰り返すうちに教える人もどんどん成長していくのを間近で見ていてとてもよくわかる。教える(=忍耐)という場数を踏んでいる分、いろいろなことに動じなくなる。物事に対してドシッと構えられるようになってくる。

昨日その出来事は、私も教えられたことがすぐできるほうではない、そういう意味で自分にとってもいろいろなことを気づかせてくれましたし、あらためて各部署のマネジャーたちの現場での苦労に感謝しないとなと思いました。
伝わらない
いろいろな場面で、私のなかで、これはこうなんじゃないかとか、こうしたほうがいいんじゃないかとか思うことがある。うまく説明できないが、一瞬でそのことの結末がわかったりする。

でもそれがうまく伝えられなかったり、なぜそう思うのかをうまく伝えられなかったりして、それがしっかりと伝わらないことがある。もしくはそれを否定されたりする。

そうなったとき、なんともいえない孤独感がある。
それが正しいか、正しくないかなどではない。当たったとか、はずれたとかでもない。
私の感覚的なものは私にしか分からないものだから、それはしょうがない。
(会社にとっての大切な経営判断であれば、絶対にそこは押し通しますが)

だけどそういうことを分かち合えないのは寂しいなと思う。
思えばそんなことをずっと感じてきたようにも思う。

今日はちょっと疲れちゃったな~。
空手でもいこうっと。
新しい月となって
台風の到来とともに10月がスタートしました。

台風はとてもつもない被害ももたらす代わりに、それまでの空気を一変させてくれるような気がします。台風一過となった日の空気はとても清々しいものであったり。

ここ数ヶ月秋田ではまともに雨が降っていなかったので、今回の台風で水不足が少しでも緩和したのではないかと思います。昨日の夜からのどしゃぶりの雨でも、それほど増水しない川を見るとましてそう思います。あ~乾いていたのだと。

台風ですら被害をもたらすこともあれば、恵みをもたらすものでもあるように、どんなことでもある側面しかもたないっていうことはないのだな~ということを昨日夜激しい雨音を聞きながら考えていました。

仕事でも残念に思うことや落胆するようなことがあっても、あとあと時間が経ったあとそんなふうにはならなかったことってたくさんあります。

期待していた方が思いがけず退社することも、新たな社員が入ってきてご縁が結ばれるきっかけであったり。
自分のやりたい事業に思わぬ障害が立ちふさがりそのときは断念せざるえないときでも、力を蓄える機会であったり。

もちろん、なぜ退社したんだ~とか、なぜできないんだ~などということに囚われてそこに留まってしまうと何も起こらないので、よし!誰かいい人探そう!とか、またチャンスが来るのを待とう!というふうに考えてどんどん行動していくっていうのが大切ですが。

今回の台風でもいろいろな想定はできても、起こってみないとなかなか必要なものややるべきことってわからないですし、実際に何か起こってしまってもそれが経験となって新たな備えができたりしますし、とりあえず何が起こってもしっかりと着実に対処していくしかない。

そういう意味で何があってもそれが良いか悪いかは、私たちの解釈しだいなんだろうと思います。

台風とともにスタートした10月、私にとってもいろいろな意味でスタートの月となりそうです。
もうスケジュールが目一杯ですが、楽しみつつ精一杯対処していきたいなと思っています。




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