日々のこと
感じたり、考えたりしていることを綴ります。
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人間関係の渦
会社では様々な人間関係が交錯します。
様々な性格の方がいますので、とても気が合う方もいれば、苦手な方もいる。

先日ある部署で人間関係があまりうまくいっていない(いよいよ表面化してきたというほうが正しいかも)と聞いた。
上司(サブマネジャー)と部下たちの対立という感じだ。(よくありますね)

組織において、マネジャーの役割や視点と、一般社員たちの役割や視点は全然違う。
対立している場合、互いがその視点の範囲内でしか見ていないことも多い。
そのため単純にどっちが正しい、悪いの話ではおさまらない。そもそもどちらも正しさを主張するから、対立となる。

今日は、その部署のマネジャーと、そんな状況にどう対峙していくか、何が一番大切なことかなど、じっくりと話し合った。
「まずは私のほうで話し合ってみます」と話してくれた。

若輩の私がいうのは大変僭越ですが、そんな人間関係の渦のなかでもまれることはとても勉強になることだ。
あっちが正しい、こっちが悪いなどでは割り切れない人間関係に対峙することはとてもつらいし、板ばさみにもなる。
しかし、そんな状況に向かっていくことで、人間的にもマネジャー的にも成長できると思っている。
もちろん、そのマネジャーを一人ぼっちにはしないようにすることも大切なことですが。

このあとマネジャーがどうしていくか、しっかり見守っていきたい。
私はその社員同士の対立そのものよりも、私が直接対応することよりも、そのマネジャーがどう対峙していくかが、この件に関して一番大切なことだと思っています。
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日常と非日常のバランス
ここ数日とても忙しくしてました。
仕事やプライベートともに予定が詰まっており、とてもバタバタしておりました。

その予定を入れているのは自分たちですので何も文句はないのですが、そんな忙しさがずっと続くと、「いつもと同じ日常」のペースが、気持ちの安定であったり、体調管理でもとても大切なものであったと改めて感じます。

なのに、なんの変わりばえのない日常が続いていくと、飽きたり退屈していきますので、結局ないものねだりみたいなものなんでしょう。

日常と非日常のバランスってほんと大切ですね。
あえて非日常的な時間と空間に身をおくことでリラックスできたり、たくさんのことを学んだり(代表的なものは旅ですね)できるのも、日常があるからなんだとつくづく感じます。

そしてここ数日の忙しさはしょうがないとしても、連日毎食すべて外食というのにとてもこたえていたところ、今日はようやく普通に家で嫁のご飯が食べれてとてもよかった。
「う、うまいな・・・」とあらためて思ったのでした。

嫁の食事が「日常」となってからも、この感動ができるだけずっと続くようにがんばろう!(笑)
職場まで走る
今日休みを利用して、職場までの約13kmの道のりを走ってみました(というかかなり歩きましたけど)。
ランニングを始めた当初から一度やってみようと思っていました。

もう何年も通い慣れた道、といってもやっぱり車で走るのとは全然違ってとても大変でした。
車で20分ほどの道が今日は1時間45分。暑さも相まってもうきつかった~。

土日など時間のとれるときには10kmほど走っていたので、いけるんじゃないかと思いきや、甘かった。
何気なく車で通っている道が、とても勾配がきつかったり、しかも道のほとんどが上り坂だったり。

なぜ、これをやろうと思ったのか、走っている間も走り終わった後もよく分かりません(笑)。
でも「なんでこんなことしてんだ?」っていう自問自答を繰り返しながらも、止めようとは思わなかったな。

見通しの甘さ、自分の実力、走っているときの体の状態、そして実際に走らなければわからない地形や景色、絶対に途中で止めないと思っていた自分の決意。
そんなところが試されましたし、そんなところがわかったところはよかったな。

何事も「経験」ということで。
終わりは始まり
昨日は年に一度ある中学時代の同窓会。
2年ぶりに参加してきました。
同級生たちの頑張っている姿を見たり、多種多様な仕事の話を聞くのはとても勉強になりますし、励みにもなります。
まぁ、単純に楽しかったな~。

その楽しかった余韻も醒めない今日朝一番に、ある社員から退職したいという申し出があった。
直接お話を伺うと、「高齢で体力的にきつい」というのが大きな要因でした。

入社する方、退職する方、仕事をしているとそんな出会いと別れがたくさんあります。
なかには円満な別れ方ではないこともありますので、とてもつらいときもあります。
やはり期待が大きいとショックも大きくなりますね(現金なものです)。


そんなことに対応しているとき、昨日の同窓会でのことを思い出した。

同級生の一人が、同業他社に勤めていることを知りました。
その話のなかで、「昨年そっち(私の会社)に転職していった人いたでしょ(たしかに数人いました)。あれで欠員が出たから、俺今のところに採用になったんだよね」ということを話していた。

そんな話を思い出し、“そうかそうか、そういうことでまたご縁もめぐっていくんだよな”と思いました。
誰かにとって残念なことも、誰かにとってはチャンスであったりするんですよね。
別れがあるから、出会いがある。

だったら、近視眼的に別れ(退職)を嘆くより、これもまた新たなご縁が生まれる機会だと思ったほうがいいのでしょう。

「終わることは始まることでもあります」
「始まるためには終わらなければなりません」
「縁を結ぶためには、縁を切る必要がある」
これらは尊敬する方の言葉だ。

さてさて円満に退職となりそうですし、前向きに募集しよう!
今度はどんな方と出会い(ご縁)があって、どんな拡がりがあるのか、ワクワクしてます。
愚痴っぽくなってしまいました
人口がほんの数万人規模の地方市だと、実はこの人とこの人が親戚だったとか、知り合いであったり、先輩後輩であったりするのが日常茶飯事だ。

特に社長さんたちは、若ければJC、そして商工会、なんとか協会、なんとか協議会などにほとんどの方が入っていたりするので、もうほとんどが知り合いといっていいくらいだ。
しかし、同じ業界ではライバル関係でもあるので、様々な思惑が渦巻きますが・・・(怖いですね~)。

そんな知り合いで仲が良かったりすると、何かトラブルがあっても、それがナアナアになるなど責任の所在があいまいになることがある。
かばい合ったり、適当なところで幕引きしようとしたりする。

私はそんな関係になることが好きではない。だからあまりそんな業界団体のようなものに所属したいとも思わない。
個人的に尊敬したり、仲の良い経営者の方はいるが、そんな関係を仕事に持ち込まない。

仕事を発注するときもいただくときも、しっかりとやってもらうし、しっかりやらせていただく。
その対価もしっかりお支払いするし、しっかりいただく。(まぁ、あたりまえですね)

ちゃんとお願いした仕事をしていないときや、満足できないときなどはしっかりとお話する。相手がどんな年上でもどんな大きい会社の方でも、きっちりと言うべきことは言う。
それでだめならどんなに個人的に仲が良くても、スパッと仕事はお断りする。それが個人的関係にも響いてくるなら、それだけのこと。

しかし、そんなふうに考えるのは、けっこう少数であることを思い知らされる今日この頃。

長いものに巻かれてたり、一人より多数のほうが心地良いこともありますし孤独感を紛らわせてくれますが、それだけだとゆでガエルのようになってしまいませんかという言葉をそのまま飲み込んで、他の人は他の人、自分は自分と何度も言い聞かせる日々です。

いろいろなことを目の当たりにすると、今の在り様が実はその方の選択で成り立っていることに気づくときがあります。
「なぜ俺の会社は赤字なんだ。なぜお客さんが減っていくんだ」という不満をもっていても、そう行動しているからそうなっているだけなんじゃないかと思わざるえない場面に遭遇します。せっかく仕事をもらえるチャンスにプライドや横並び意識が邪魔して取りにいけなかったり。
そんな場面を見ると、余計そう思います。それなのに他のものに転嫁したり。


あ~今日は愚痴っぽくなってしまいました。
まだまだ修行が足りません。

時が流れてわかること
今日二年ほど前に退職した元社員から突然連絡をいただき、会って少しお話をした。
(結婚のお祝いをいただいたのだった。退職した社員からお祝いをいただけるなんて、とてもうれしい。)
退職してからも半年(一年かも)に一度くらい会って近況をお聞きしたりしていた。
勤めてくれていた当時とても優秀でとても頼りにしていた方であった。

その元社員といろいろなことをお話をするなかで、やはり在職していた二年前のことが思い出される。

二年前には新人だった方、そしてまだまだ経験も浅く、視野も狭かった方たち(自分もそうでしたけど)、そんな社員が今どうなっているかといえば、それぞれが責任あるポジションについていたり、もう中堅として新人を指導していたり、いろいろな資格をとりにいってもらっていたりと、それぞれがそれぞれでがんばっている。(なかにもあんまり変わらない方もいますけど・・・)

そのときと今とを比べると社員たちのほとんどが明らかに成長している。
その元社員と話をしていて、当時のことを懐かしむようなノスタルジックなことを思いつつも、その会話に登場する社員たちが今はとても頼りになる人たちになったなということにも気づかされた。

「そういえばあのとき彼は(彼女は)こんな感じだったな。」と思うことで、今の彼ら(彼女ら)たちは当時と比べものにならないくらい変わって(成長して)きているんだな~というふうに。

日々劇的に変わっているわけではないのでわかりづらいのですが、身長と同じようにあのときとくらべたら(またはいつの間にか)ちゃんと成長している(伸びている)。
別に何か特別なことをやっているわけでもなく、日々起こることに一生懸命対処したり、自分たちに課せられた職務や役割を着実に実行していただけでも。

確実に時が流れている。
その時間をどう使っていたか、そのときその場ではこれでいいのかとか、こうやってよかったのかと考えてしまうが、時が流れてみてわかることがたくさんある。

そうやって考えると、社員たちはとてもよく応えてくれてました。
社内のことは二年前で止まっている元社員と話していて、そんなことを気づかされました。
真剣な姿勢
昨日は空手の日。
いつもの木曜は大人だけですが、その日は大会も近いということで小学生も一緒に練習していました。

とても熱心な茶帯の小学校低学年の女子2人。

それぞれ練習していると、その子のうち一人が突然泣き出した。
「あ~練習がやっぱりきついんだろうな~」と思っていると、先生から「泣くくらい悔しいときは、大きい声で気合い入れてみな!」と言われていた。

練習がつらい、きついと思って泣いているのではなく、その型を何度やってもうまくできない自分が悔しくて泣いていたのだった。

それに気づいたとき、私はハッとさせられた。
自分もそれくらい真剣に練習していたのだろうか、本気で練習しているんだろうかと。
泣きたいほどうまくなりたいという気持ちをもって練習しているのかといわれれば、そこまではなかったんじゃないかと。

そんなことをその子たちを見ていて考えさせられました。
この子たち強い!と思いましたし、泣いたあと休憩をはさんで練習を再開した際の師範の姿勢も、その後の練習の雰囲気も素晴らしかった。

何事にもあれくらいの姿勢・気概をもってあたりたい。
小学生であっても、あの純粋に真剣な姿勢からは学ぶことがほんと多いです。
元気でました!!!
取引先の方で、とても親しくさせていただいている方がいる。
とても優秀な営業マン。

少し年下で慕ってきてくださり、取引先という関係を超えて、友人としてお付き合いさせていただいている。(しかし、仕事は仕事でしっかりやってくれている。友人関係を仕事には一切持ち込まず、ナアナアにはならない。そんなところも素晴らしい)

先日その方と久しぶりにお会いして、少しお話させていただいた。
やはり社内の人間関係ではいろいろと苦労があるようで、そんな話を伺った。

やる気のない、仕事も押しつける、そんなダメな先輩や上司を持つというのは、ある意味とてもつらい。
とても理不尽な状況で仕事をしなければならないこともある。
しかし、別な見方をすると、そんな状況はものすごいチャンスということでもある。

私も以前の職場では上司(というか社長)に何も教えてもらえず、ほぼ放置されたことがある。
何をどうしたらいいかもわからないなかで、結果を求められる。
あの時代は本当にきつかったが、そのとき学んだことが今の仕事のやり方に、いい意味でも反面教師の意味でも役立っている。

結局自分が動かざるをえなくなる(尻ぬぐいも含めて)ことで、仕事も人もやり方も時間のやり繰りも、人一倍覚えていき、どんどん鍛えられていく。
さらに自分がマネジャーなどの上司となったときにも、その苦い経験は活かされる。
それらは結果としてすべて自分の力になっているのでしょうね。

その方も、厳しい状況を前向きにとらえているようで、「俺がその人の分の仕事も全部やってやろうと思っています」「俺が飛び越え(出世したい)ていけばいいんです。俺も向上心は常にもっているようにしたいです!」とおっしゃっていた。
いや~その心構え、素晴らしい!

「久しぶりにお話できて元気でました!」といって帰っていきましたが…
いえいえ、私のほうこそ元気でました!!!
一人では無理でした
先日、私が窓を開けて仕事をしていると、外の駐車場から大きな声で私の噂話をしている声が聞こえた。(その日は職場のイベントがあり、外部からお手伝いに来てくださった方たちがいた)
別に悪口というほどのことでもなかったが、「さっき○○(私のこと)がきて、こんなことを言ってたよ~」みたいな話が丸聞こえであった。(なぜ、あいさつしただけなのに話題になるんだろう???)

窓にはレースカーテンがしてあり中は見えなかったので、すぐそこに私がいるとは気づかなかったのでしょう。
「おいおい、聞こえてる聞こえてる」とか「うーむ、つまらないことを聞いてしまった」などと思ったのですが、それでもとても冷静に気持ちも乱されずに聞いていました。

そしてまたつい先日、葬儀後のお斎でのこと。
葬儀をお勤めされた副住職さんの隣の席でした。
その方との話の流れのなかで自己紹介がてら私の仕事のことをそろっと話すと、そこから堰を切ったようにお話が始まってしまった。
行政のこと、市の政策のこと、私の業界のこと、地域の活性化のこと。
(なぜ、ほぼ初対面の私にそんなことを熱く・・・)

お話された内容はどれも浮き世ばなれした稚拙な理想論でしたので、少しイラッともしましたし、「まいったな~」とも思っていましたが、私のせいでその場の雰囲気を悪くするには申し訳ないのでひたすら傾聴していました。

以前であれば、これらのことに気持ちをかき乱されていました。「それは違う」などと反論してみたり。こんなこと以外にも、いろいろな問題が起こるたびにかなり落ち込んでいました。

それがほんの数ヶ月前、ストンと気持ちが落ち着くようになった。
ほんとにある瞬間ストンと。映画のシーンがパッと変わるように。
あきらめたというのか、受け入れたというのか、達観するというのか(自分でいうな)、腹が据わったというのか、まぁそんなこともあるさというふうに考えられるようになりました。

それ以来、このような出来事にも鷹揚としていられ、、突如起こる事態や変化にも冷静に対応できるようになってきていると、自分では思っています。

やれることしかできない。やれることは全力でやる。

そんな心持ちというのは、いろんな経験を積んで何年もかかって少しずつ築き上げていくものだと思っていましたが、こんなふうにパッと変わるとは・・・。

いろいろな本を読んだり、いろいろな方に出会って教えてもらったり励まされたり、いろいろジタバタして、そんな自分も受け入れられるようになる。

今でもたくさんの方に助けられています。一人では無理でした。
投げかけられる言葉
自分に対して投げかけられる言葉はとても大切だ。
かけられる言葉によって、自らを省みたり、励まされたり、落ち込んだりもする。
(陰陽師的にいうと、「呪」(しゅ)なのでしょう)

その言葉が常に称賛だけであったりすると、とても大変だ。
しかも本音としての称賛ではなく、建前としての称賛であればちょっと恐ろしい。
さらにその建前としての称賛を、真に受けてしまうともう無敵だ(笑)。
(真に受けるかどうかは、その方の性質だったり性格だったりする)

その言葉を真に受けることで、自分の行動や言動は常に正しいのだと思い込まされる。
結果、その“正しい”行動や言動をいつでもどこでも押し通すようになる。

そうすると、世間から「天狗になっている」「傲慢な奴だ」などという称号・形容詞がもれなくついてくる。

美辞麗句を浴びせられ続けながらも、自分を律することができる方はある程度強い方だ。
その状況では“傲慢な”方向にいくのが、普通なのかもしれません。

あいつは「傲慢だ」「天狗になっている」「勘違いしている」などという言葉、だいたいその方の性格がそうだといわれることが多い。

しかし、その方の環境もとても重要な要素なんですね。ですからその方のまわりにいる人間の責任も大きい。
本音や意見、忠告を聞くことができない環境はとても寂しいものだ。
孤立することを意味する。

先日、こんなことを考えさせられる光景に出くわしました。
そういう意味ではちょっとかわいそうな状況でもありました。

自分の発する言葉、自分に投げかけられる言葉、どちらも大切にしないとな。
そして常に自分を省みられるようにしていきたいなと思います。

寿命を全うする
今週土日は、社員の身内のお通夜、そしてお世話になっていた方の葬儀へ参列させていただきました。
(重なるときは重なりますね)

今日の葬儀をした方というのが、父のときからお世話になった方でしたので、とても感慨深いものがありました。

しかもそのお亡くなりになる直前の数日間、不思議といろいろな出来事が重なり、思いがけず私のほうで直接関わらせていただくことができました。
普段ほとんど話すことはなかったのですが、父とのことや、私の仕事こともお話できました。
まさかこれほどすぐにお亡くなりになるとは思いませんでしたが(前日まで普通にお話していました)、そんなふうに接することができたのもありがたかったです。

息を引き取る際も、ちゃんと奥様が到着するのを待って、奥様の看取るなかでお亡くなりになっていました。
仕事柄、たくさんの方の臨終の場面に立ち合わせていただきますが、とても静かで安らかな最期であったと思いますし、奥様からもそのように言っていただきました。

誤解を恐れずにいえば、寿命を全うするというのは、ほんとうに素晴らしいことだと思います。
病気や事故などいろいろな要因でお亡くなりになることがあるかと思いますが、それもまた寿命なのでしょう。
死は誰でも避けられません。いつかやってきます。
その“やってくるまで”の間、その人生を「生ききる」ことが大切ではないかと思っています。

もちろん、亡くなる方にとっても、残された方にとっても、別れというのはとてもつらく悲しく寂しいものには違いありませんし、「寿命だから」とスパッと割り切れるものではないとも思いますが。私も父が病気で亡くなったときは、時間が必要でしたし。

今回心から「お疲れ様でした」と思いましたし、その最期に立ち合わせていただいて「ありがとうございます」とも思いました。

私もいつどこでどのように寿命を終えるのかわかりませんが、今ある生に感謝してしっかり全うして“生ききろう”。
見事にちゃんと生ききった方の最期に(思わず)立ち合わせていただいて、そんなことを改めて思いました。

私たちは自由
今私のまわりで、いろんな意味で過渡期をむかえた友人や社員たちがいる。
要は決断をする時期で変化の時期だ。

20代の頃、学習塾に勤めていたとき、ご両親の「こうあるべき、こうしたかった」という人生を歩んでいるお子さんをたくさん見ました。(それが良いとか悪いとかではないです。ほとんどの方(私も含めて)は、ご両親の考え方で育てられますので、それが普通です。ただ、なかには自分の「したいこと」と「しなければならないこと」があまりに乖離していて、見ていて辛くなるようなお子さんもいましたが。)

しかし、大人になってからは違う。
私たちは本来自由(のはず)だ。もちろんその分責任も伴いますが。

世間の目や“こうあるべき、こうすることが幸せ”などというドグマや常識、そんなことに考え方が支配されていたりしますが、できたらそれらにとらわれずに決断してほしい。

意見は意見として、常識は常識として捉えても、決断は自分自身がそう望んだようにしてほしい。
スティーブ・ジョブズのあの有名な卒業式スピーチにもあるように・・・。

私もきっかけはどうであれ、心から望んでいる仕事と役割をやれているので、とても幸せです。
ときどきいろいろな方を巻き込んだ大失敗をしたり、虚無感に襲われたり、絶望しそうになることも起こります。ものすごいプレッシャーに震えが止まらないときも、勝手な噂、悪評をたてられることもあります。それでも自分が望んでやっていることなので「自分は幸せです」といえますし、反省はあっても後悔はありません。

どんな決断であっても、尊重しますしその方との関係は変わりませんが、そんなことを心から思います。
たわいもない話
今月から妻が同じ会社に勤め始めました。

これまでのやってきた仕事とは全く異なる仕事、そしてまた新たな人間関係(しかも“妻”という特殊な立場で)を築いていくというのは、とても大変だと思います。

しかし、妻を見ていて、その環境に適応しようと努力している姿はとても尊敬できますし、刺激となっています。

まずは現場に入ってもらい、汗だくになりながら社員の名前から業務内容や一日の流れを覚えているような段階ですが、その現場においてどんなことが起こってて、どんな雰囲気なのか、どんなふうに仕事を進めていっているかなども含めて、勉強してほしいなと今は思っています。

妻はもともとあまりアクティブなほうではなかったと思います。(汗をかいているのを見たことがなかった・・・)
しかし、今日仕事終わりでかなり疲れているなか、ふたたぶ大粒の汗をかきながら空手の練習もしっかりとこなしていました。

ちゃんと空手まで来るなんて・・・以前の妻であれば考えられないことでしたので、ちょっと感動してしまいました。

そんな妻は明日お休みなので、リラックスしながら映画を観ています。
おつかれさまでした~

以上、たわいもない話でした。
変化を恐れない
自分がこうしたいと思っても、どうにもこうにもならないときがあります。
逆に自分がまったく望んでないのに、そうせざるを得ないときもあります。

それらは、自分の努力とか実力などで解決できればいいのですが、大抵のことはそんなことになりませんし、個人という範ちゅうを超えることのほうが多い。

・とても期待していた社員が、突然辞めてしまったり。
・期待していた稼働率や売り上げにならなかったり。
・新しい事業を始めたいと思っても、許可が下りなかったり(待たされたり)。
・その会社を辞めたいとは思わないのに、辞めざるを得ないような状況になってしまったり。

こんなときは自分の望んでいるようにならないわけですから、とてもストレスがたまります。
なんでこんなことになるんだ!と呆然となったり、イライラしたり、怒ったりして。

それらはとても悪いことのように思います(実際あまり好ましくないんですが・・・)が、実はそうでもないんじゃないかと最近思うようになりました。というより、そう考えないほうがいいんじゃないかと思うようになりました。

望まない出来事・現実に対して、なんとかして軌道修正したりテコ入れしたり、さらに魅力的な職場にしたり、心機一転して新天地を求めたり…より良いものへと変化する機会として解釈する。
自分が招いたことはもちろんですが、望まないこと、うんざりすることも含めて、“ふってきてしまったこと”はしっかり受け入れて対処していく。

起こることから逃げず、変化も恐れず、一つの機会として行動する。
そんな強さをもちたい。

(日々もういろんな問題が起こりますね…)




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